臨床家のための矯正 YEAR BOOK 2014
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011三浦不二夫先生に聞く 日本の矯正歯科の歩み臨床家のための矯正YEARBOOK 2014 その頃,Kingsleyの後輩のAngleは「歯は噛むためにあるから,歯列不正を治すことは不正な咬合を治すことであり,健全な咀嚼器官にする医療である」と主張し,Orthodontiaとして臨床歯科の1分科としました.1900年のことです.その翌年には彼はAngle schoolを創設し,矯正の教育を始めました(図2).OrthodontiaからOrthodonticsへ──Angleの考えとしては完全なる咬合を得るということでしょうか?三浦 はい.重複しますがAngleはmalocclusionをnormal occlusionにすることが矯正であるとして矯正歯科学 “Orthodontia”と定義したのです.そして,不正咬合を上下顎の第一大臼歯の咬合状態で診断することを提案し,Ⅰ級,Ⅱ級,Ⅲ級の概念が生まれました. Angleが同好の志を集めて学会を開催したのが1901年でしたから,学会開催数と年号とが一致します.つまり,今年は2014年だから,米国矯正歯科学会(American Association of Orthodontists:以下AAO)の学会数も114回目なのです.Angleが唱えたOrthodontiaは1920年,彼の弟子LisherによってOrthodontics,つまりaをcsに変えて,科学に変えられ,この分野の専門職を,Orthodontistと称することにしたわけです.海を渡った日本人たち──ところで,Angle schoolというのは歯科学校だったのですか?三浦 Angleはセントルイス市内のアパートの一室に私塾を開き「Orth-odontiaという新しい歯科の学問を教えるから,関心のある歯科医師は集まれ!」と呼びかけたのです.当初は4人しか集まらなかったのですが,次第に受講者が集ってきました.それを聞きつけて入門してきた最初の日本人が寺木定芳先生です(図3). ここで寺木先生について少し述べましょう.寺木先生は1904年にボルチモアの歯科大学に入学し,卒業したとき,この新しい学問を知り,1907年にAngle schoolに入ったそうです.寺木先生はもともと仙台藩の裕福な商家の出で.早稲田大を卒業して「米国に行って小説でも書こうかな」と軽い気持ちで米国を訪れたら,歯の方で新しい大学ができたことを耳にしたそうです.当時の日本には,口中医と称した歯と口腔疾患の治療を専門とする医者はいたけれど,殿様のお抱えで治療費が高く,庶民の歯まで及びませんでした. そんなとき,地元の仙台藩から,歯医者が少なくてどうしようもない,お金を出すから勉強してきてほしいといわれたそうです.彼は矯正も習って1908年に帰国しました.──その当時のことを考えると,寺木先生は歯科界のエリートですね.三浦 そうですね.当時東京歯科医専の校長であった血脇守之助先生は,Angle schoolを出た寺木先生を横浜まで迎えにいって学校で矯正を教えてみないかと口説いたそうです.講図1a, b a:高山紀齋先生(1850‐1933)(参考文献1,p30より引用),b:『保齒新論』(復刻版)の第13章に跌論がある(参考文献2,図3より引用).図2a, b a:Edward H. Angle(1855-1930),b:Angle school(参考文献1,p190より引用). 図3 寺木定芳先生(1883-1977)(参考文献1のp188より引用).32b2a1a1b跌論

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