ザ・クインテッセンス3月
2/8

震災から1年……女川町と歯科保健活動 東日本大震災後は,主に東北地方から関東地方の太平洋沿岸部に,大きな被害をもたらした.女川町(宮城県)中心部においても,高さ17.5mともいわれる津波に襲われ,3つの津波避難ビルのうち2つは完全に浸水し,人口の1割弱の方々がお亡くなりになった.女川湾沿いに建っていた3階建て鉄筋コンクリートの女川共同ビルは,流され,ちぎれ,潰れて,国道を塞いだ(11ページ3月参照).4,500棟あまりの家屋のうち3,000棟弱が全壊し,一時は5,000人以上が避難所に身を寄せた.津波で流された家屋などにより海岸沿いの道路は通行不能となり,鉄道の線路を歩いて石巻との行き来をする人が多かった.携帯電話の電波も届かず,ラジオから入ってくる情報が唯一であり,数日後に自衛隊が頻繁に物資を運んできてくれるようになるまでは,とにかく,その場で生き延びるしかなかった. 木村裕先生(12ページ参照)は,あまりの大きな地震に,より高いところに避難したほうがいいと判断し,女川町最大の避難所となった総合体育館のある総合運動場に避難した.女川町は,この地域の多分にもれず,高齢化率が30%を超える地域である(平成22年統計・33.6%).保健師らとともに木村先生は,避難所内の救護所での対応を開始し,3月21日からは歯科救護所として対応を開始した. その頃,歯科保健研究会(大阪)の渡邉充春先生が宮城県内の歯科の情報を逐次まわしてくださっており,宮城県多賀城市の藤秀敏先生からの情報として,筆者はこの木村裕先生を知った.4月17日に別件で石巻に行ったおりにお伺いしたところ,なんと中越沖地震のときにお世話になった新潟大学の鈴木一郎先生もいらしていた.また,厚生労働省を通じて大学からの避難所巡回歯科救護チームは,すでに4月11日より派遣されてきていた.その後,有志にて連続させて,木村先生の歯科救護所のお手伝いをさせていただいた.そして,9月からは,保健センターの歯科保健活動のお手伝いもさせていただいている. 女川町では11月から,女川地区仮設歯科診療所が稼働し,当面の歯科医療体制は整った(10ページ11月参照).およそ時期を同じくして,診療所や薬局も体制が整い,避難所も閉鎖されて,応急仮設住宅における相談業務の開始など,保健医療福祉に関するとりあえずの体制が整ったともいえる.しかし,応急仮設住宅に入ったということは,いわば個室の避難所に移動したという程度と捉えるべきであり,これからが本当の意味で,女川町の復興へのステップのはじまりなのであろう.歯科における“支援”と“復興”とのバランス 震災後半年が過ぎた秋口からは,震災支援レポートのようなものも散見されるようになったが,それらのなかには,違和感を抱かせるものも少なくなかった. 1つ目の違和感は,外部からの支援が素晴らしいことをやったかのように感じること.初期はたしかに,交通手段・宿泊手段・情報・食料品・排泄など,自らですべてを完結させなければならずに大変だったろうと思う.しかし,主にそういう時期が過ぎてからが歯科保健活動のニーズが高まるときであり,ほとんどの外部からの支援者の経験というのは,そういう時期に数日という限られた期間をそこで過ごしたというだけのものだ.地元に戻れば,待っている家族があり,住む家があり,任せてきた仕事がある.そんな幸せな環境から数日抜け出して見聞きしたものは,その時期だけの局所的な経験であって,経時的にも,全体を評価す緊急寄稿医療支援から復興支援へ歯科ができるサポートとは?──宮城県女川町での活動を一例として企画趣旨 未曾有の大震災から1年が経とうとしている現在,歯科支援活動と地域の復興状況を振り返り現状を認識するとともに,今後の自立支援をサポートするには歯科は何ができるのか,歯科支援を行っている中久木氏に提言していただいた.発信されることが少ない歯科・医療・保健の現場の声を伝えたい.中久木康一東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科顎顔面外科学分野連絡先:〒113‐8549 東京都文京区湯島1‐5‐45東日本大震災から1年経って女川町仙台岩手県宮城県福島県山形県陸前高田8the Quintessence. Vol.31 No.3/2012̶0488

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です