歯科衛生士 2018年10月号
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歯科衛生士 October 2018 vol.4282京都開業)のお誘いを受けて、ある勉強会に行った先に、数人の先生方の中に山﨑長郎先生(東京都開業、日本臨床歯科医学会会長)や本多正明先生(大阪府開業、日本臨床歯科医学会副会長)がKim先生のもとで研修を受けておられました。 また、その関係から1986~1987年頃にかけて、Kim先生の勤務先である南カリフォルニア大学(米国)に山﨑先生と共に研修にも伺いました。土屋 覚:そして、私に山﨑先生を紹介してくれたのが和子先生でした。私は歯科技工士になって以来、さまざまな先生と仕事をさせていただいてきましたが、その支台歯形成や印象採得に「これは大丈夫かな?」と思うことが多かったのです。とくに1980年代ではまだ、ルーペを見ながらマージンを合わせて模型上では適合させることができたとしても、口腔内で3Aの探針を使ってマージンが触知できないようなクラウンを作ることは厳しい時代でした。そんな中、和子先生も関わっていた山﨑先生の原宿デンタルオフィスではそれが実現できていることを知り、「ここには自分が欲しかったものがある」と思いました。土屋和子:私はLAのKim先生のオフィスで1年間研修を受けましたが、その探針を毎朝研いでいました。当時はまだ、「探針をわざわざ研ぐ」という考えが日本にはありませんでしたから驚きましたね。「探針は鋭利でなくてはならない」というKim先生の教えでした。その後、3人チームが始動したきっかけは……?覚:こうした経緯から、私は山﨑先生と1993年ごろから仕事をさせていただくようになりました。SJCDへの入会は、1988年のことでした。そして、賢司先生と仕事を始めたのは1995年頃だったと思います。賢司:覚先生は、私と知り合う以前から山﨑先生の技工を担当しておられましたからね。そんなある日、私はすでに1989年に開業していたのですが、山﨑先生のオフィスに症例を見ていただくためにお伺いしたことがあります。すると、山﨑先生からその症例に装着されていた補綴装置に対して厳しいご意見をいただいて、たまたま同席していた覚先生を指して「この症例の再補綴は彼に作ってもらいなさい」とおっしゃられ、それが私と覚先生の出会いとなりました。ですが、われわれ3人が揃うのはまた後のお話ですね。和子:2000年に、あるメーカーさんが「補綴のセミナーを開きたい」ということで私たち3人をピックアップしてくださり、新潟県歯科医師会の主催で講演会をさせていただいたのがきっかけですよね。賢司:この後にも和子先生とは講演で同席する機会があり、その流れで私のオフィスに来ていただくようになりましたね。覚:それからも、全国各地で3人組で講演をしてきましたね。もちろん臨床も……。賢司:つまりは、山﨑先生と本多先生がKim先生に師事してきたことが、私たちチームが集まったきっかけで、それを見た歯科業界の皆さんが引き合わせてくださったということです。当初は、お互いにうっすらとは知っていましたが、チームを組んでここまで一緒に仕事をする関係ではありませんでした。しかし、全顎的な補綴治療を、支台歯形成、プロビジョナルレストレーション、そして歯周組織のマネジメントまで含めて1980年代からレベル高く行われていたKim先生の存在

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