歯科衛生士 2019年12月号
6/8

自分ならどちらを選ぶか米山 私の家内の祖母は、心臓が弱かったのです。入院したと聞いてお見舞いに行くと、先日入院したばかりなのにほとんど意識がなくて、ずっと点滴を受けていました。「お見舞いに来たけど何もできないから、足でもさすってやろう」と思って布団を上げたら、脚が丸太のようにむくれていたのです。「ええっ!」とショックを受けました。もともと痩せた方で、あんなに細い脚だったのに……。顔にも、苦悶の表情を浮かべていました。 そのとき、「アレッ」と思いました。もしかすると、以前に看護師さんに聞いた、病院に行くとみんな点滴で……という“あの状態”なのか? この脚は、体内の循環が悪くなってむくんでしまっているということだろうか、という思いが頭をかすめました。 義理の祖母は、結局、2年間に及ぶ入院生活の末に亡くなりました。もちろん莫大な費用もかけて。そんな体験を通して、もっと穏やかに亡くなられる例を特養で見ていた私は、過剰な医療介入が苦痛につながるのではと考えるようになりました。そして先生の本に出会い、「自分だったら、自分の親になら、どちらを選ぶだろうか」と考えさせられたのです。点滴に溺れる石飛 先生のおっしゃることは、一つひとつ「そのとおり、そのとおり」と思います。訪問看護師だった妻に、「医者はだいたい点滴のやり過ぎよ。あれではまるで溺れさせているようなものだわ」と言われたことがあります。実はそれが発端になっているのです。 老衰で終末の近くなった身体に、脱水をせぬようにとせっせと点滴をし続けても、すでにそれを処理できる力は落ちてしまっているのですから、全身はむくみ、肺までうっ血して、呼吸は非常に苦しくなってしまいます。考えてみれば、それは当然の成り行きです。だけど医師はこれまで、積極的な治療の介入をしないという選択肢を持っていなかった。 このホームの看護師長の田中さん、歯科衛生士の渡辺さん、管理栄養士の永井さん……、みんなかつては病院でバリバリ働いていた人たちです。このホームには、病院で「本当にこの対応がその人のためになるのだろうか?」と疑問を感じて来た多職種の人たちが、入居者の心を考えながらその日々の生活を支えています。点滴ひとその人のための医療介入になっているか?つにしても、その人のためになるかどうかを考える。回復の可能性があるならがんばってもらいましょう。「本当にその人にためになるのか?」というものさしが存在する時代になってきたんじゃないでしょうか。特養のケアに学んだ、死との向き合い方の違い石飛 ここでは、看護師長は、エンゼルケア、俗に言う死化粧を行っていました。外科医の時は、いまさら何をするんだろうと思っていました。だけど、それが家族が最後に見る顔なんです。火葬場へ送るまでの何日かの間に見るその顔が最後に刻まれるんですから。家族と一緒に、みんなで「お父さんに会いに行くのに何の服を着せよう?」と半分お祭り騒ぎになります。手をかけてかけて、最後は「ああ、こんなきれいな人だったんだ」と見送るんです。米山 最高ですね。石飛 私なんか、すっかり考えが変わりましたよ。病院では、全然しなかった。そういう文化はありませんでした。「死は敗北」ですからね。それこそ医学教育の大きな問題ですね。米山 これを変えていくのはなかなか難しいでしょうが、もしかすると、国民や患者さんが変えていくのかもしれませんね。大げさなことは言えないですけど。 私が40年おつき合いしている施設(御殿場十字の園)でも、利用者の方が亡くなると、ベッドの上に安置されて施設内を全部回るのです。普通は亡くなれば、死を忌み嫌って、霊安室に送ってしまいますよね。しかし、そうすることで「自分もこうやってみんな(施設内の家族)に見送ってもらうんだ」と安心されるのです。すごいなと思いました。そして、霊安室では、お亡くなりになったお年寄りをみんなきれいに清拭している。そういったことをやりたがらない人も多いかもしれないけど、あたりまえのことのようにそれを日常的に昼夜問わずやってくださっている姿を見ると、感じるものがあります。歯科衛生士 December 2019 vol.4382

元のページ  ../index.html#6

このブックを見る