繋ぐ
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繋ぐ ― 災害歯科保健医療対応への執念 ―82その場で生き残るためにやれることをやる 平成23年3月11日、それ以前の私は、人生をどのように考えていたのだろうか。さして考えていなかったのか、明瞭に思い出すことはできない。取り立てて趣味もなく、それまでの50年と6か月を平凡に生きてきたような気がする。健康には恵まれていて、大病を患うこともなく、体調不良を理由に仕事を休むことさえ一度もなかった。平成21年、父親の死に直面してからは、死生観らしきものは芽生え始めていたが、自分の死について考えることはなかった。ごく普通の病院歯科医師というより、小さな田舎町の唯一無二の病院に勤務する、地域に埋もれた地味な歯科医師であった。 宮城県の北東部に位置する南三陸町は、平成17年、志津川町と歌津町の合併により誕生した。文字通り、三陸海岸の南端で太平洋に面し、水産業を生業の中心とする、人口1万7666人(平成23年2月末)の小さな町であった。 私が勤務していた公立志津川病院は、東棟4階、西棟5階構造、正面玄関を南(海側)に向けた横長の建物で、外来診療室はおもに1〜2階、入院病室は3~4階にあり、西棟5階の会議室からは200m程先にある海を直接眺めることもできた。昭和35年のチリ地震津波の際、旧志津川町の被害は大きく、41人の犠牲者が出た。その時に病院を襲った津波の高さ

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