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切歯路

【読み】
せっしろ
【英語】
Incisal path
【辞典・辞典種類】
新編咬合学事典
【詳細】
下顎の偏心運動中に、切歯点が描く運動経路。下顎運動の電子的計測および運動学的解析において切歯点を標点とした運動軌跡として用いられる。GPT-6では、切歯誘導incisal guidanceという用語を生体上と咬合器上に区別し、それぞれ“1)下顎運動における上下顎前歯の接触面の作用、2)咬合器の運動における切歯指導桿と切歯指導板の接触面の作用”と概念的に定義しているが、切歯路incisal pathについては定義されていない。
3次元6自由度の下顎運動は下顎三角により代表される。下顎の運動を下顎三角の運動で代表させて計測または解析を行なう場合、その運動は下顎三角の後方2頂点である左右の顆頭中心の運動軌跡(顆路)と前方頂点である切歯点の運動軌跡(切歯路)により運動学的に表現される。下顎運動は左右の顆路と切歯路によって誘導される。前者の作用を顆路誘導、後者の作用を前歯誘導という。前歯誘導は、偏心運動中の上下顎前歯の被蓋部における接触滑走作用により発現する。天然歯列においては、誘導の主役は前方運動における中切歯や側方運動における犬歯だけとは限らず、症例によっては側切歯や小臼歯、稀には大臼歯が誘導を司どるが、いずれの場合でもその作用を定量的に代表させるために切歯点の描く運動経路、すなわち切歯路を用いる。いい変えると、切歯路は前歯誘導の機能を定量化したものである。従来、顆路は個人ごとに固有であるため人為的に変えることはできないとされ、咬合の基準として重視されてきた。一方、切歯路は歯科医が自由に修正ないし修復することができると考えられてきた反面、その機能が運動学的に解明されていなかったため、修正ないし修復の方法は明らかでなかった。
【切歯路の研究小史】
切歯路は顆路に比べてその測定が容易なため、下顎運動を代表する運動経路のひとつとして古くから研究されてきた。Luce(1899)は下顎に取りつけたフレームを利用し、切歯点の前方と顆頭の外側方に光を反射するビーズ球を取りつけて矢状面と前頭面から写真撮影を行なった。そして切歯点の運動範囲には限界があり、かつ開閉運動時に前頭面からみた切歯路はさまざまな彎曲形状を示し個人差がある、などを明らかにしている。Ulrich(1896)は下顎フレームに6個の銀球を取りつけ、写真撮影とプロッティングボードを併用して矢状面と水平面から観察を行ない、顆頭と切歯点の運動と2次元的関係を求めて切歯点の運動範囲の側面像などの記録を残している。Zsigmondy(1912)は、はじめて咀嚼運動中の切歯点の運動経路を前頭面から観察し、咀嚼運動中に切歯点は咬頭嵌合位から下方に開口し(第I相)、ある開口位から反転して側方に偏位し(第II相)、ついで下側方から咬頭嵌合位にもどる(第III相)三角形の運動経路をとることを示した。Posselt(1952)は機械的測定により下顎が境界運動を行なったときの切歯点の運動範囲を50名の被験者につきはじめて3次元的に測定して、後にポッセルトの図形と呼ばれるようになった紡錘形状の運動範囲菱形柱に関する詳細な報告を発表し、切歯点の運動範囲には矢状面内および水平面内のいずれにおいても個人差があると指摘している。根本(1962)は電気的測定法により、ポッセルトの図形の精密な3次元計測を行なった。
切歯路が下顎運動のガイドとして顆路と同等の重要性をもつことを主張し、切歯路の補綴的位置づけを最初に行なったのはGysiである。Gysi(1908)は、下顎の前方滑走運動が矢状切歯路と前方顆路の両者によって支配されることを示し、アダプタブル咬合器に切歯指導機構をはじめて取り入れた。彼は切歯指導桿の先端を矢状面内で傾斜した切歯指導板によってガイドさせることにより、切歯路を再現させた。このメカニズムは、その後に開発される各種の調節性咬合器に採用され、咬合器の設計に大きな影響を与えた。Gysiはまたゴシック・アーチ・トレーサを考案し、多数の患者の水平側方切歯路を測定した。その運動経路に個人差のあることをみつけ、切歯指導板に水平側方切歯路を各個調節できる機構が必要であると考えて、そのような機構をもつ切歯指導板をトゥルーバイト咬合器(1927)に取りつけた。トゥルーバイト咬合器の切歯指導板は、軸学説(1929)に基づき矢状切歯路と水平側方切歯路の調節機構を備えているため、一見切歯路の3次元的調節が可能な印象を与えるが、形状は平面型であった。最近の下顎運動理論は、平面型の切歯指導板では側方運動中の垂直顎間距離の調節ができないため、この形状は合理的でないことを教えている。Gysi(1949)は晩年になって、弟子のFischerの意見(2重軸学説)を取り入れ、樋状切歯指導板を取りつけたギージー・フィッシャー咬合器を試作したが、この咬合器は製品化に至らなかった。後述のように、樋状切歯指導板はごく最近になって脚光を浴びることとなる。
一方ナソロジーでは、当初バランスド・オクルージョンを偏心位における理想咬合とした。この咬合様式を補綴物に付与するには咬合器を用いなければならない。咬合器を用いる場合、その運動をどのように調節したらよいかが課題になる。McCollumらの実験結果(McCollum、Stuart 1955)では、パントグラフで顆路を計測するときに天然歯でガイドさせても、あるいはクラッチを用いベアリング・ピンの高さをいろいろに変えても計測された顆路は変わらなかった。そのため顎路は個人ごとに固有であり、一方切歯路は自由に変えられるという考え方が誕生した。
こうして下顎三角の後方頂点である顆路を咬合器調節の基準とする考え方がそれまでよりさらに強く支持されるようになった。顆路は咬合の関連要因のうちもっとも重要な要因とみなされるようになり、その精密な計測と再現を意図してパントグラフと全調節性咬合器が開発された。その後、理想咬合の概念は、D’Amico(1958)による犬歯誘導の提唱を契機として、バランスド・オクルージョンから、ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンへと変わった。そして臼歯離開の再現に関心が向けられるようになり、その発現に切歯路が関与することが認識されてきた。こうして下顎三角のもう1つの頂点である切歯路が注目されるようになった。
ナソロジーをはじめとする咬合学の未解決の課題は、いかにしてこの切歯路を制御して臼歯離開を付与するかということにあった。しかし従来ナソロジーが蓄積してきた研究方法では切歯路の問題を解決することはできなかった。このように従来切歯路の誘導機能も咬合器の切歯指導機能も不明確のままであったのは、3次元6自由度の電子的下顎運動計測装置による計測データや運動学に基づく下顎運動理論式(数学モデル)による解析結果が活用できなかったためである。そこで以下、切歯路の機能を明らかにしてゆくためには、まず切歯路の運動学的定義と計測データの把握からはじめなければならない。
【切歯路の定義と運動学的知見】
1)切歯路の3次元的定義
前方運動における切歯路を前方切歯路という。前方切歯路が矢状面内で水平基準面となす角度を矢状前方切歯路傾斜度という。側方運動における切歯路を側方切歯路という。側方切歯路の水平面投影を水平側方切歯路という。左右の水平側方切歯路によって描かれる屋根状の図形をゴシック・アーチという。ゴシック・アーチの頂点はアペックスまたはアローポイントと呼ばれる。左右の水平側方切歯路が正中をはさんでなす角度を水平側方切歯路角またはゴシック・アーチの展開角という。ゴシック・アーチの展開角は、左右の側方切歯路角が左右対称であることを前提とした用語である。左右の水平側方切歯路はほぼ左右対称であることが多いが、一般にはそうとは限らない。そこで下顎運動の計測または解析の際には、左右の水平側方切歯路を区別するため、左または右の水平側方切歯路と正中面のなす角度をそれぞれ左または右の水平側方切歯路角と呼ぶことがある。側方切歯路が前頭面内で水平基準面となす角度を前頭側方切歯路傾斜度という。側方切歯路が矢状面内で水平基準面となす角度を矢状側方切歯路傾斜度という。
2)切歯路の長さ
前方運動が咬合に関係するのは、中心位または咬頭嵌合位から切端咬合位までである。この間に切歯点が移動する直線的距離は3.6±1.3mm(中野 1976)、4.1±1.1mm(保母ら 1993)で、顆路との間に大きな相違はない。側方運動が咬合に関係するのは、中心位または咬頭嵌合位から犬歯尖頭咬合位までである。側方運動における切歯点の左右的な最大移動量(ポッセルトの運動範囲菱形柱の左右長)は片側で約10mmであるが、咬頭嵌合位から犬歯尖頭咬合位まで上下顎歯が接触滑走する間に前歯が移動する直線距離は切歯点で5.0±1.0mm(中野 1976)、または犬歯尖頭で4.1±1.1mm(保母ら 1993)で、顆路との間に大きな差はない。
3)矢状前方切歯路傾斜度
電子的計測による矢状前方切歯路傾斜度の平均値はカンペル平面を基準として43.0度(中野 1976)、軸鼻翼平面を基準として32.8度(西 1989)、同じく40.8度(小川ら 1992)であり、アキシス平面に換算した3者の算術平均値は約47度である。これら電子的計測による矢状前方切歯路傾斜度の平均値はいずれも矢状前方顆路傾斜度の平均値(同じ電子的計測データ群で算術平均約42度)より大きく、両者の差は平均約5度である。McHorris(1979)は適切な臼歯離開を得るためには矢状前方切歯路傾斜度が矢状前方顆路傾斜度より5度大きいことが望ましいが、角度差がこれより大きくなると患者は不快を訴えると述べている。上記のデータはこのMcHorrisの見解に符合する。ちなみにアキシス平面とは、トランスバース・ホリゾンタルアキシスと上顎右切歯切端から眼窩下縁中点に向かい43mmの点を含む水平基準面をいう。アキシス平面を基準とした矢状切歯路傾斜度をカンペル平面に換算するには4.3度、軸鼻翼平面に換算するには10.0度を差し引けばよい。
矢状前方切歯路傾斜度は下顎切歯切端(切歯点)が上顎切歯の舌側斜面を接触滑走するときの運動経路(切歯路)が水平基準面となす角度である。Slavicekは、1,200本以上の前歯を調べ、上顎中切歯の舌側斜面は閉口時の下顎中切歯切端の接触点を境として、それから上方の緩やかな斜面(S1)とそれから下方の比較的急な斜面(S2)とに区分される、と結論している。上方の斜面S1は切歯点と左右の顆頭中心を結ぶ下顎三角面とほぼ平行で、閉口時の下顎中切歯の歯軸とほぼ直交する。下方の斜面S2の傾斜角度は矢状前方切歯路傾斜度と同義であるが、矢状顆路傾斜度よりも平均9度(Slavicek 1984)、9.8度(Orthlieb 1990)または8.6度(Niedermoser、Kulmer 1993)急である。顆路が緩やかだとこの差が大となり、顆路が急だとゼロに近づく。Slavicekらの計測値は、上述した日本人の矢状前方切歯路傾斜度と矢状前方顆路傾斜度の差(平均約5度)やMcHorrisが患者が不快を訴える限界として示した値(5度)より平均約4度大きく、両者の差の適正値が平均約10度くらいまで拡張される可能性を示唆している。
4)水平側方切歯路角
Gysi(1929)によれば、水平側方切歯路角の平均値は平均120度である。電子的計測による水平側方切歯路角の平均値は150度(中野 1976)または143度(西ら 1992)で、いずれもGysiがゴシック・アーチの展開角として示した平均120度よりも20~30度大きい値を示している。この相違を生じるのは、ゴシック・アーチ・トレーシングでは標点(描記針)が水平面(描記板)上を滑走することになり、上顎犬歯の口蓋面上を下顎犬歯の尖頭が滑走する上下顎歯接触滑走条件下の下顎運動と相違するためであるが、両者の頂点(アローポイント)は一致するので、ゴシック・アーチ・トレーサの効能には変わりなく、また実角でみると両者の計測値に大きな開きはない。下顎運動理論式と標準データを用い、歯列図形上の切歯点においてゴシック・アーチに前方切歯路を加えた3本爪様の図形を描き、各臼歯の咬合面上に同様な図形を描くと、鳥の足跡に似た一連の図形が描かれる。この図形をみると、ゴシック・アーチが咬合面形態と密接な関連をもっていることが一目でみてとれる。
5)前頭および矢状側方切歯路傾斜度
前頭側方切歯路傾斜度は従来あまり重視されなかった。しかし最近の下顎運動理論は、前頭側方切歯路傾斜度が作業側咬頭路の前頭面内における傾斜度と強い相関を有しており、したがって、対合歯の非機能咬頭(剪断咬頭)の前頭側方有効咬頭傾斜角と臼歯離開量を介して密接に関連していることを教えている。電子的計測による前頭側方切歯路傾斜度の平均値は30.9度(中野 1976)または31.6度(西ら 1992)で、いずれも約31度という値が得られている。
矢状側方切歯路傾斜度の電子的計測値は、カンペル平面を基準として平均62.7度(中野 1976)、軸鼻翼平面に換算して平均59.2度(西ら 1992)で、アキシス平面に換算した両者の平均値は約68度である。側方切歯路の方向は水平側方切歯路角と前頭側方切歯路傾斜度により一義的に定まり、かつ、この両者のほうが咬合面形態との数値的関連が密接なので、咬合要因としての矢状側方切歯路傾斜度の重要度は小さい。
【切歯指導板の形状】
1)直線か曲線か
切歯路を咬合器上に再現するときは切歯指導板と切歯指導桿を用いる。切歯指導板の形状には直線的なものと曲線的なものとの2種類がある。天然歯の歯列模型を咬合器上にマウントし、切歯指導桿の半球状の先端で水平な切歯指導板上に盛ったレジンを形成するとドーム状に彎曲した凹型の陥没部分ができあがる。この凹型ドーム形状は、切歯路の形状をそのまま表したものではなく、また上顎前歯部口蓋面の凹型ドーム形状を裏返したものでもなく、切歯点の動きにともなって切歯指導桿の半球先端部により形成された包絡面にすぎない。側方切歯路を電子的下顎運動計測装置により計測すると、水平側方切歯路だけでなく、側方切歯路の前頭面投影もちょうど矢印の頭部のように屋根状の形を呈し、正常咬合者では偏心運動中に上下顎歯が接触滑走する咬頭嵌合位から2~3mmの範囲ではほとんど直線状になる。このことは電子的下顎運動計測装置を用いなくても、水平面投影についてならば、ゴシック・アーチ・トレーサを用いれば誰でも視覚的に確かめることができる。したがって、切歯指導桿の先端が半球状でなく尖った形状であるとすれば、切歯指導桿先端の運動軌跡は直線的な屋根状になる。以上から咬合器の切歯指導板は直線的な形状でさしつかえないと結論した。
2)平面型か樋型か
咬頭嵌合位から2~3mmの範囲で切歯路が直線性を有することは上述した。この範囲は、ポッセルトの図形と呼ばれる切歯点の境界運動菱形柱の上面において、咬頭嵌合位の前方で半径2~3mmの部分に現われる凸型の三角ピラミッドに相当する部分である。その三角ピラミッドの稜線の水平面投影や前頭面投影がそれぞれゴシック・アーチの水平側方切歯路角と前頭側方切歯路傾斜度になる。そしてこの凸型三角ピラミッドを裏返したのが切歯指導板のあるべき形状、すなわち樋状である。
このようにGysi、Fischerが試作した樋状形状は、切歯指導板のもっとも合理的な姿であることが明らかにされたが、その形状が直線的なため調節値が定義しやすいという特長も備えている。樋状切歯指導板は、中心溝の左右に2枚の側翼がちょうど航空機のフラップのように取りつけられており、中心溝の傾き角と側翼角のあおり角が調節可能になっている。前者を切歯指導板の矢状傾斜角、後者を側翼角と呼んでいる。それぞれの機能を切歯路と対応づけると、切歯指導板の矢状傾斜度が矢状前方切歯路傾斜度に、側翼角が前頭側方切歯路傾斜度に対応し、それぞれを制御することになる。また両者を上顎前歯舌面の形状と対応させると、前者は上顎切歯舌面の矢状傾斜に、後者は上顎犬歯舌面の前頭傾斜に対応している。上顎前歯舌面の凹型ドーム形状と樋状切歯指導板の形状が相違するのは、前者が下顎前歯唇面の凸型ドーム形状の包絡面であるのに対し、後者は尖頭状につくられた切歯指導桿先端のガイド面であるためである。いうまでもなく切歯指導桿の先端は下顎切歯の切端や下顎犬歯の尖頭と位置が違うから切歯指導板の矢状傾斜度や側翼角の調節値の設定にはその補正が必要になる。また側翼角は前頭面内の角度ではなく、さらにその作用に矢状傾斜度の調節値も加わるので、その換算も必要になる。いずれも保母、高山の下顎運動理論式(高山 1987、93、Takayama、Hobo 1989、保母、高山 1995)に基づいたコンピュータ演算により算出が可能である。
【切歯路の機能】
1)切歯路による顆路制御の可能性
3次元6自由度の電子的下顎運動計測装置を用いた最近の知見によると、平均作業側顆路はトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を真横に向かい、矢状面内にぶれを生じない(保母 1982、Hobo 1983、84、84)。この事実は、健康な顎関節にとってこのような方向に作業側顆頭が向かうのがもっとも自然であることを示唆している。さらに最近の下顎運動理論は、作業側顆路と側方切歯路が互いに原因と結果の強い相関を有していることを教えている。そうだとすると、硬組織からなる上下顎前歯の接触滑走によって発現する側方切歯路は、軟組織で支持されている作業側顆頭の運動経路を制御する可能性がある。
作業側顆路がトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を真横に向かうように算出した側方切歯路の理想値をニュートラル・ラインと呼んでいる。計測された側方切歯路をニュートラル・ラインと比較したとき、前者が後者の上方に位置する場合は計測された作業側顆路がトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を斜め上外側方に向かい、逆に前者が後者の下方に位置する場合は作業側顆路が斜め下外側方に向かうことがわかった。前後方向についても同様な傾向が認められた(Hobo、Takayama 1989)。この知見を実証するため、レジン製ガイドテーブルとガイドピンによる人工的な前歯誘導を付与する実験を行なった。その結果、術前に行なわれた上下顎歯接触滑走条件下の計測では矢状面内でトランスバース・ホリゾンタルアキシスから前後方向または上下方向に偏位していた作業側顆路のぶれが、人工的な前歯誘導を付与した術後には平均約4分の1(p<0.01)に減少した(保母、高山 1997)。この実験により切歯路による顆路制御の可能性が確証された。
2)臼歯離開への影響
下顎の偏心運動時に発生する水平圧は、天然歯に非生理的なストレスを加えるため有害視されている。この水平圧の合理的な分散を目指すという観点から臼歯離開の必要性は歯科医学に定着している。ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンは臼歯離開咬合のための咬合様式で、咬頭嵌合位では臼歯が前歯の過度の接触を防止し、かつ下顎のすべての偏心運動時に前歯が臼歯を離開させる、と定義されている。この臼歯離開を発現させるため、従来は生体としての患者に固有な顆路を計測し、その顆路を咬合器上に再現することが不可欠とされてきた。一方臼歯離開の発現に切歯路も関連することは認識されていたが、従来、切歯路の臼歯離開への影響は顆路のそれよりはるかに小さいと考えられ、したがって咬合の観点から切歯路は顆路より軽視されてきた。その結果、下顎三角の3頂点のうち前方の1頂点がなおざりになるという事態を生じていた。
下顎運動理論式(高山 1987、Takayama、Hobo 1989、保母、高山 1995)を用い、臼歯離開量への影響率を切歯路と顆路の間でコンピュータ演算により比較した。その結果に基づいて、切歯路と顆路の第2大臼歯における臼歯離開への影響率をおおよその比で示すと、前方運動において2:1、側方運動の非作業側において3:1、作業側において4:1になることがわかった。ちなみに第1大臼歯では前方運動における比率が3:1となるが他はあまり変わらない。このように従来重視されてきた顆路に比べ、切歯路が2~4倍の影響力を臼歯離開に対してもつことが明らかになったので、切歯路よりも顆路を重視してきた従来の考え方を逆転させなければならなくなった。
一方顆路の信頼度に関し、3次元6自由度の電子的下顎運動計測装置による計測データに基づいた実験的解析を行なった結果、顆路には往路と帰路の相違によるぶれがあるという知見が得られた(保母、高山 1995)。このぶれの大きさの平均値に対する比率は前方運動で29%、側方運動で57%に達する。このように顆路には往路と帰路の相違によるぶれがあり、上記のようにその影響率が切歯路に比べて小さいという事実から、顆路の計測値だけを基準にして良質な咬合をつくるのは不可能であることが明らかになり、切歯路の重要性が浮き彫りになった。
3)切歯路の異常値と不正咬合の発生率
切歯路を司どる前歯の動揺は108(中切歯)~64(犬歯)μmの範囲にある(Rudd 1964)。そのため切歯路には顎関節の軟組織構造が帰せられる顆路のぶれのような不安定要因が入りこむ余地は少ない。3次元6自由度の電子的下顎運動計測装置によるデータをみても、切歯路には顆路にみられるような往路と帰路の相違は存在せず、皆無とはいえないがその量はわずかなものである。しかし、正常咬合者の切歯路傾斜度の標準偏差値は前方切歯路においても側方切歯路においてもともに約10度である。このバラツキの大きさの平均値に対する比率は前方運動で26%、側方運動で37%に達し、顆路におけるぶれほどではないが無視できない大きさであることがわかった。さらに不正咬合に関し、オーバーバイト、オープンバイト、アングルのClass IIおよびClass IIIの発現率はそれぞれ6.6%、2.5%、9.4%および0.8%で、計19.3%に達する(Kellyら 1973)。このことは患者の5人に1人は本人の基準とすべき切歯路をもたないことを示している。このように正常咬合者においてもバラツキが大きいうえ、一般に不正咬合の発現率が高いため、顆路と同じく切歯路も咬合の基準としては不適格であると結論される。
これらの知見に基づいてさらに検討を行なった結果、咬合の基準としてもっとも信頼度が高いのは永久歯萠出後の臼歯の咬合面形態であるという結論が得られ、その結論に基づいて咬頭傾斜角の基準値を咬合の基準とした臨床術式ツインステージ法と樋状切歯指導板を備えたツインホビー咬合器が開発された(保母、高山 1995)。しかし、生体の下顎運動および咬合器の運動において、臼歯離開への切歯路の影響力が顆路のそれの2~4倍であるという事実は、下顎運動の計測および解析における切歯路の重要性および咬合器の運動の制御における切歯指導板の重要性をそれぞれ如実に示している、といえる。
⇒前歯誘導、顆路、臼歯離開