デンタルアドクロニクル 2016
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78無痛治療システム「GK-101」の輸入販売を始めた。「GK-101」は特殊な薬剤でう蝕部分を軟化させ、エアタービンを使わずにう蝕を除去するという、当時としては画期的と思われたシステムであった。しかし、当時は歯質との接着性をもった接着充填材料が存在せず、詰め物を充填する際には機械的な嵌合力をもたせるために、結局はエアタービンを用いてアンダーカットのある窩洞を形成する必要があった。そのため、う蝕部分を除去するだけの「GK101」は当時の臨床家に受け入れられなかった。 そこで、クラレの研究者たちはそれならば歯質化学的に接着する材料を開発すればよいのではないかと考え、研究開発を進めた結果、1976年に象牙質にも接着性を有するモノマー「フェニル-P」を見出すことに成功した。さらに東京医科歯科大学の増原先生と総山先生のご指導を受け、世界初の接着性充填修復材料「クリアフィルボンドF」を1978年に完成、発売するに至った。その後、接着性モノマーのさらなる開発を進めた結果、「フェニル-P」よりも優れる「MDP」を見出し、さまざまな材料に展開、セルフエッチング技術の開発にもつながっていった。1983年には歯科用接着剤の高分子充填材料の研究および工業化が評価され、業界で権威ある「高分子学会技術賞」を受賞している。●貿易業から始まった、ノリタケの歴史。 ノリタケのルーツは、今から140年前の1876年に、森村市左衛門が創業した「森村組」にさかのぼる。ノリタケといえば、歯科材料のほかに洋食器の製造というイメージも強いが、当初は食器の製造ではなく、米国向けに日本の骨董雑貨を輸出・販売することを目的としていた。その市左衛門の弟・豊は米国に渡り、ブロードウェイに「モリムラブラザース」という店を開いていた。日本からは、扇子や兜といった日本のさまざまな骨董雑貨が送り出されたが、その中にあって陶磁器も大きな人気を博し、次第に陶磁器に傾倒していった。 そして多くのデザインの絵付け陶磁器を商品番号とともに収録したカタログを店に置き、それを見た顧客からの注文を取りまとめて日本に発注し、それを米国に送り出すというシステムで販売を拡げた。しかし、当初の森村組には陶磁器の製造を行う設備や人材はなく、陶磁器自体を製造する工場と、それに絵付けを施す工場の2方面に外注する流れになっていた。陶磁器自体は愛知県の瀬戸や美濃に、そして絵付けは、「愛知県鷹場村大字則武」、現在の愛知県名古屋市西区則武に集めた職人たちに委ねた。●日本初の洋食ディナーセットのために、10年の歳月が費やされた。 そうするうちに評判が評判を呼び、多数の注文が米国から届くようになって、森村組は自社で一貫して陶磁器を製造することを決意した。当初はあくまで工芸品という位置づけであったが、1913年には「セダン」という名のディナーセットから洋食器の製造を開始し、「ノリタケ=食器」というイメージを構築しはじめた。日清戦争や日露戦争を経て、日本の食生活にも変化が起きはじめた時代のことである。しかも注目すべきなのは、その完成に10年の歳月を費やしたという点である。洋食のコースに用いられる皿のひとつに、テーブルウェアの主役とも言えるディナー皿とよばれるものがあるが、この10インチ(約26センチ)の真円の皿を焼くために、その10年が必要だったのである。 陶磁器の焼成において、真円の平皿は壺などと比較して、全体の焼成収縮のコントロールがとくに困難をきわめる。お手持ちの平皿があればごらんいただきたいが、同じ皿の中でも、中心から外周にかけて肉厚が変わっていることがお分かりいただけるだろう。お察しのとおりだが、この肉厚を変えなければ皿は焼成中に歪み、割れてしまう。その焼成中の応力を巧みにコントThe KND Story ②History of Noritake

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