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下顎運動の運動学的構成

【読み】
かがくうんどうのうんどうがくてきこうせい
【英語】
kinematical constitution of mandibular movement
【辞典・辞典種類】
新編咬合学事典
【詳細】
下顎運動の各態様を運動学的に解析し、下顎運動の運動学的成分と運動の自由度とを対応づけた構成。下顎運動の体系的理解に資することができる。保母、高山(1995)により創案された。物体の3次元運動に関し、運動学においてオイラの定理Euler’s theoremと呼ばれる基本定理によれば、“3次元空間内における剛体のいかなる運動も、その剛体上に定めた任意の1点を中心とした3次元回転rotationと平行移動translationで表すことができる。平行移動の方向と量は、回転中心の3次元変位に等しい”。ここでいう3次元変位と3次元回転はいずれもベクトル量である。下顎運動の解析は下顎を剛体とみなして行なわれる。物理学において物体内の任意の2質点間の距離が力学的に常に一定であるとき、その物体を剛体というと定義されており、したがっていかなる力が加わってもこれにより変形を起こさない物体を意味している。下顎骨は厳密な意味で剛体ではないが、下顎骨のいずれかの部分に変形(歪み)を生じさせるような応力(ストレス)が負荷される状態は非生理的で正常な状態とはみなしえないから、正常な状態における上記の定理だけで十分である。ちなみに下顎骨の変形をともなう場合、その変形はわずかであるから天文学における摂動理論perturbation theoryの概念を応用して補正すればよい。
【開閉および前方運動】
下顎の開閉および前方運動は、矢状面に投影して解析することができる。厳密にいうと実際の開閉および前方運動は右または左に偏ることが多いが、これらは側方運動との合成とみなすことができるので、解析上は開閉および前方運動を左右対称とみなし、矢状面内の2次元運動として取りあつかってさしつかえない。2次元運動の場合オイラの定理は、“2次元平面内の剛体のいかなる運動もその剛体上に定めた任意の1点を軸とした1次元回転rotationと平行移動translationで表すことができる。平行移動の方向と量は回転軸の2次元変位に等しい”と簡約化される。中心位において、上顎基準座標系に固定されたトランスバース・ホリゾンタルアキシスと一致する下顎に固定された運動座標系の点を上記任意の1点にとると、これが顆頭間軸(蝶番回転軸)の矢状面投影(顆頭点)になる。この回転軸は仮想軸で、車輪のそれのように眼にみえる軸ではないが、運動学的には自動車の車軸が地面に対し移動しながら車輪の回転軸となっているように、“動く回転軸”の性格をもっている。開閉および前方運動の運動学的態様は、古くからボール・スロット型咬合器上に機械的に表現されていたが、全運動軸の発見(河野 1968)を契機に、石原(1972)によりはじめて“下顎運動は下顎上の1点を中心とするトランスレイションtranslationとローティションrotationによる”と解析された。開閉運動と前方運動の主な相違点は蝶番回転角の大きさで、開閉運動では最大20度に達する蝶番回転運動が行なわれるが、前方運動では平均0.25度(中野 1976)または0.11度(西 1989)で、最大約1度とはるかに小さく、ほとんど平行移動に近い。以上を要約すると、下顎の開閉および前方運動は、矢状面投影上における顆頭間軸の回りの蝶番回転と下顎全体の平行移動と表現することができる。平行移動成分は前下方に向き、前方運動の場合には矢状前方顆路と等量である。
【側方運動】
側方運動は3次元空間内の下顎運動で、咬頭嵌合位から上下顎歯を接触滑走させながら、非作業側顆頭(CNW)が前下内方に移動し、作業側顆頭(CW)が下顎窩内でボールベアリングのように回転しながら、わずかに外側方へ移動することによって発現する運動である。このとき下顎全体は、作業側顆頭上の運動学的中心(クロスポイント;CW0)を回転中心として、側方旋回様の回転運動を行ないながら、わずかに平均約1mm作業側に平行移動する(保母 1982)。側方運動の運動学的構成は、保母、高山(1995)により次のように運動学的に解析された。トランスバース・ホリゾンタルアキシス(T軸)を含む水平基準面を平面R(R平面)とする。次にT軸と非作業側顆路(CNW0→CNW1)を含み、R平面に対し矢状側方顆路傾斜度αだけ前傾している平面P(P平面)を想定する。顆頭間軸(蝶番回転軸;H軸)の運動は、P平面内で行なわれる。H軸は、側方運動中の蝶番回転の回転軸であると同時にP平面内で運動する“動く回転軸”である。下顎はH軸とともに、作業側顆頭中心CW0を通りP平面に立てた垂線(側方旋回軸;L軸)の回りに角度θだけ側方旋回を行なう。このとき非作業側顆頭CNWの側方移動成分s(サイドシフトの総和)は内側方に向かう。同時に作業側顆頭中心CWは、トランスバース・ホリゾンタルアキシス上を外側方にb(ベネット運動;CW0→CW1)だけ移動する。サイドシフトの総和sとベネット運動の大きさbは等しい。L軸は垂直軸に対し角度αだけ前傾した仮想軸であるが、運動学的には側方運動中の側方旋回の回転軸であると同時にベネット運動とともにCW0→CW1へと移動する“動く回転軸”である。
上述したように、側方旋回の回転軸(L軸)は垂直軸に対し角度αだけ前傾している。そのためこの運動は側方旋回角θおよび矢状側方顆路傾斜度αの2つの要因により規定され、自由度が2つあることになる。下顎が側方旋回のみで蝶番回転を行なわないとき、切歯点IはIを通りP平面に平行な平面Q(Q平面)上をほぼ外側方に移動する。この場合切歯路はQ平面上にあり、矢状切歯路傾斜度は矢状顆路傾斜度に等しい。下顎がH軸の回りに蝶番回転を行なったとき、IはQ平面から下方に外れ、前下方に向かい移動する。この場合切歯路はQ平面から下降し、矢状切歯路傾斜度は矢状顆路傾斜度より急になる。ちなみに側方運動中の蝶番回転角は平均0.72度(中野 1976)で、前方運動中のそれの約3倍である。上記では簡単のため、下顎の平行移動のうち外側方への移動(ベネット運動bとサイドシフトs)についてのみ記述した。下顎骨は軟組織によって支えられた生体運動であるため、下顎運動もファジーな要素を包含している。その典型的な例として、作業側顆頭CWはしばしば矢状面内に偏位する(ぶれる)。運動学的には原点のぶれの性格をもっているので、平行移動の一種に区分している。
以上を要約すると、下顎の側方運動は側方旋回軸の回りの側方旋回、顆頭間軸の回りの蝶番回転および外側方へのわずかな平行移動に作業側顆頭におけるぶれが加わったものと表現することができる。側方旋回は矢状側方顆路傾斜度に対応し、蝶番回転は犬歯誘導に、外側方へのわずかな平行移動は作業側におけるベネット運動およびサイドシフトに対応している。
【運動の自由度】
下顎運動の運動学的構成を、運動の自由度の観点から総括すると次の通りである。開閉および前方運動は、下顎の2次元運動とみなせるので運動の自由度は3つである。この自由度の数は、平行移動すなわちH軸の矢状面投影(顆頭点)の2次元偏位に2つ、H軸の回りの蝶番回転に1つ配分され、計3つとなる。側方運動は下顎の3次元運動なので運動の自由度は6つである。この自由度の数は、平行移動すなわち作業側顆頭中心CWの外側方変位および矢状面内偏位にそれぞれ1つおよび2つ計3つ、回転すなわちL軸の回りの側方旋回およびH軸の回りの蝶番回転にそれぞれ2つおよび1つ計3つ配分され、計6つとなる。
⇒6自由度、平行移動と回転