下顎運動の決定要素
- 【読み】
- かがくうんどうのけっていようそ
- 【英語】
- Determinants of mandibular movement
- 【辞典・辞典種類】
- 新編咬合学事典
- 【詳細】
- ⇒下顎運動
下顎が上顎に対し、境界運動範囲内で相対的に運動する現象。GPT-6では、下顎の何らかの運動と定義されている。咬合との関連が考えられることから古くより歯科医学の研究対象とされてきた。上顎も空間内で運動するが、下顎運動は上顎が動かない状態を想定して考えることになる。下顎は咀嚼や発音や嚥下に際し、特徴ある運動を営む。下顎が機能時に営む運動を機能運動と呼び、ブラキシズム、クレンチングなどの非機能運動と対比される。
一般医学の分野では、ヒトの身体運動を研究するために、力学の法則やエレクトロニクスを応用して研究する生体力学biomechanicsという学問体系が生まれている。最近では歯科の領域にも歯科生体力学dental biomechanicsまたは歯科生体物理学dental biophysicsという用語が生まれた(GPT-6)。下顎運動はその目的により方向、量および速さが決められる。それらは生理的な反射により瞬間的に行なわれ、下顎自体を動かす力は筋力、すなわち咀嚼筋の収縮力で、その原動力は筋組織内の化学反応によって生じたエネルギーである。従来、下顎運動は補綴学においてよく研究されてきたが、補綴的な研究からだけでは、この運動の本体を解明することは困難である。近年、咬合の問題の重要性が認識されるようになり、ようやく各科の総合的な協力で、その解明がなされるようになった。
下顎の運動空間の境界上で営まれる運動を境界運動と呼び、境界内で行なわれる習慣運動と区別している。下顎の境界運動は、同一の軌道を通る再現性の高い運動であるため、パントグラフによって測定し、咬合器上に正確に再現することができる。一方、習慣運動は境界運動範囲内で行なわれ、その経路が多種多様であるため、これを正確に再現することは困難とされている。最近、開発されたマンディブラ・キネジオグラフ、シロナソグラフは、この習慣運動を電気的にとらえることを目的とした装置で、この方面の研究に成果をあげている。
従来から下顎運動は、多くの人々により研究されてきたが、それらの努力は常に下顎運動を機械的・工学的にとらえることに向けられてきた。こうして下顎運動の研究と咬合器の開発は、過去100年の間、互いに関連しながら補綴学のなかに歴史を刻んできた。しかし、下顎運動という生命現象を、機械的な方向のみから研究することには無理があり、最近になって電子的計測データと生理的データを結びつけようとする動きが活発になり、下顎運動の研究に新しい光があてられようとしている。
下顎運動は開閉運動、前方運動、側方運動の3つの基本的な運動からなり、左右の顆頭点と切歯点を標的として、境界運動と境界内運動(習慣性運動)が研究されてきた。
【開閉運動】
この運動には境界開閉運動と境界内開閉運動があり、前者は後方境界開閉運動と前方境界開閉運動に分けられる。これらの運動は矢状面に投影すると理解しやすい。後方境界開閉運動は2つの異なった円弧から合成されている。1つは最後退位からはじまり、ターミナル・ヒンジアキシスを軸とした顆頭の純粋な回転運動によって生じるもので、下顎はターミナル・ヒンジアキシスの回りに10~13度の範囲で開閉する。このことはターミナル・ヒンジアキシスの理論的根拠とされてきた。下顎が中心位にあるときの軸をトランスバース・ホリゾンタルアキシスと呼ぶ。これを軸とする蝶番回転運動の範囲は明らかではないが、5度前後、開口量にして約8mm程度とみこまれる。
もう1つの円弧は後方境界運動の後半に生じるもので、顆頭の純粋な回転が終了したところから、最大開口位に至る開閉運動路である。この運動中に顆頭は平行移動をともなった回転を行なう。このとき下顎は下顎孔のやや後下方を中心として回転するといわれているが、これは運動学的な回転中心ではない。
一方、前方境界開閉運動は下顎が最前方位にあるときに行なわれる開閉運動で、その最上端は上方境界運動路の最前点となり、その下端は最大開口位に一致し、後方境界開閉運動路もこの位置に終わる。前方境界開閉運動路は後方境界開閉運動路と異なり、1つのなだらかな円弧を形づくっている。
習慣性開閉運動は無意識に行なう反射的な開閉運動で、どのような咬合位からでもはじまり、またどのような咬合位にも終わることができる。日常絶え間なく行なわれる運動であるが、その経路上に早期接触があると運動路が反射的に修正される。習慣性開閉運動は、境界開閉運動のように下顎の取りうる最後退位または最前方位で行なわれる運動ではないから、その運動は自由で同一の軌道を通ることはない。しかしその経路にはおのずから各個人特有のパターンがみられ、多くの場合その出発点と帰着点は咬頭嵌合位に一致する。
【前方運動】
左右の顆頭と関節円板が下顎窩前壁に沿って滑走しながら前下方に引き出されることにより発生する下顎全体の前下方への運動。境界前方運動と習慣性前方運動とに分けられる。
前方運動が咬合に関係するのは、中心位または咬頭嵌合位から切端咬合位までの前方滑走運動路である。この間に顆頭および切歯点が移動する直線的距離はそれぞれ、3.3±1.3mmおよび3.6±1.3mm(中野 1976)、または4.0±1.1mmおよび4.1±1.1mm(保母ら 1993)で、両者の間に大きな相違はない。
前方運動中に顆頭の示す経路を前方顆路と呼んでいる。前方顆路は、臼歯の咬頭傾斜角に影響を及ぼすとして、古くから注目されてきた。矢状面に投影した前方顆路は、普通下方に凸の彎曲を示す。この彎曲は有歯顎では著明であるが、無歯顎者では浅く直線的なことが多い。また小児では関節隆起が低く、その斜面が平坦であるため顆路の彎曲も緩やかとなる。しかし成長にともなって、次第に関節隆起の高さが増し、斜面も急傾斜になってくる。これら経年的な関節隆起の変化は、顎間距離の大きさと深い関係をもつといわれている(上條 1966)。前方顆路が直線を示すことは稀で、わずか8%の症例にそのような状態がみられる(Aull 1965)。
前方顆路と水平基準面とがなす角度を前方顆路傾斜度と呼んでいる。有歯顎者の前方顆路がカンペル平面となす角度は平均33度(Gysi 1929)で、フランクフルト平面となす角度は約45~50度である(Lundeen 1973)。電子的計測による前方顆路傾斜度の平均値は、カンペル平面を基準として37.5度(中野 1976)、軸鼻翼平面を基準として30.8度(西 1989)、同じく45.6度(小川ら 1992)、アキシス平面を基準として39.1度(保母ら 1992)であり、アキシス平面基準に換算した4者の平均値は約42度である。ちなみにアキシス平面とは、トランスバース・ホリゾンタルアキシスと上顎右切歯切端から眼窩下縁中点に向かい43mmの点を含む水平基準面をいう。
前方運動中に切歯点が咬頭嵌合位から切端咬合位に至る経路を前方切歯路と呼んでいる。平均4mm程度の長さをもち、不規則で、個人によってさまざまな形態をとる。前方切歯路が水平基準面に対してなす角度を、矢状切歯路傾斜度と呼び、Gysiによれば、その平均は60度である。普通、矢状切歯路傾斜度は矢状顆路傾斜度よりも角度が大きい。電子的計測による矢状切歯路傾斜度の平均値はカンペル平面を基準として43.0度(中野 1976)、軸鼻翼平面を基準として32.8度(西 1989)、同じく40.8度(小川ら 1992)で、アキシス平面に換算した3者の平均値は約47度である。このように電子的計測による矢状切歯路傾斜度の計測値はいずれも前方顆路傾斜度より大きく、両者の差は約5度である。McHorris(1979)は適切な臼歯離開を得るためには矢状切歯路傾斜度が前方顆路傾斜度より5度大きいことが望ましいが、角度差がこれより大きくなると患者は不快を訴えると述べている。上記のデータはこのMcHorrisの見解に符合する。
河野(1975)により、矢状切歯路傾斜度と矢状顆路傾斜度がほぼ同じ角度をもつものと、両者の間にかなりの角度的な差をもつものの2型があり、前者の型は前方運動時に顆頭の回転が少なく、逆に後者は顆頭の回転が多いことが明らかにされ、矢状切歯路傾斜度の大小は、顆頭の回転量という顎関節の形態以外の要因によっても差が生ずるということが報告されている。
前方顆路と前方切歯路の間に相関があるか否かは興味ある問題である。西(1989)によると、正常咬合者の矢状顆路傾斜度と矢状切歯路傾斜度との間に統計的に有意な相関は存在せず、両者の差は-20度から+40度の間に分布し、平均2.4度で後者のほうがわずかに急な傾向がある。
【側方運動】
この運動は、一方の顆頭が下顎窩内で回転し、他方の顆頭が前下内方に滑走しながら移動することによって発生する下顎全体の旋回様の横ずれ運動である。側方運動中に下顎が移動する側を作業側、その反対側を非作業側という。側方運動は運動学的には、下顎の作業側へのわずかな移動をともなった、側方旋回運動である。側方運動も、境界側方運動と習慣性側方運動とに分けられる。境界側方運動は、作業側と非作業側でその様相が異なっている。
側方運動が咬合に関係するのは、中心位または咬頭嵌合位から犬歯尖頭咬合位までの側方滑走運動路である。側方運動における切歯点の左右的な最大移動量(ポッセルトの運動範囲菱形柱の左右長)は片側で約10mmであるが、咬頭嵌合位から犬歯尖頭咬合位まで上下顎歯が接触滑走する間に非作業側の顆頭および前歯が移動する直線距離はそれぞれ4.1±1.0mmおよび5.0±1.0mm(中野 1976)、3.7±1.1mmおよび4.1±1.1mm(保母ら 1993)で両者の間に大きな差はない。
側方運動中に作業側の顆頭が回転しながらわずかに外方へ移動する運動は従来ベネット運動と呼ばれてきたが、GPT-6ではlaterotrusionという呼称に変わり、ベネット運動は不適切用語になっている。作業側顆頭の外方への移動は、1mm前後のわずかなものであるが、咬合面の形態に及ぼす影響が大きいため、咬合学上重視されてきた。この運動によって下顎は側方運動中に全体として作業側へずれる。このずれはサイドシフトと呼ばれていたが最近マンディブラ・トランスレイションという呼称に変わった。しかし、マンディブラ・トランスレイションの呼称はまだなじみが薄いので、以下旧用語のサイドシフトを用いて説明する。
サイドシフトがどのような原因で発生するか明らかでないが、Guichet(1970)は作業側の関節包の靭帯の弛緩や伸張によって、側方運動時に顆頭が関節包の緩みがなくなるまで、外方に移動するために発生するのではないかと述べている。作業側顆路は、水平面内では前側方に向かうか後側方に向かうことがあり、矢状面内では上側方に向かうか、下側方に向かうことがある。この運動の方向、経路、発生の時期には個人差が多いが、平均的にはトランスバース・ホリゾンタルアキシスに沿って外側方に向かう(保母 1982)。
側方運動中に非作業側の顆頭が、前下内方へ向かうようすを水平面に描かせると、2つの異なった性質をもつ運動経路が現われる。その1つは、この運動の初期に出現するもので、下顎が作業側に向かって横ずれするために現われる。この横ずれはイミディエイト・サイドシフトと呼ばれる。他の1つは、イミディエイト・サイドシフトの終了後、作業側の顆頭の回転にともなって起こる前下内方への比較的まっすぐな運動経路で移動量が多い。これはプログレッシブ・サイドシフトと呼ばれる。イミディエイト・サイドシフトは普通mm単位で表され、その平均値は0.42mmである(保母 1982)。波多野ら(波多野、Clayton 1988)によれば、正常者のイミディエイト・サイドシフトは平均0.23mm、クリックのある顎関節を有する者では平均0.49mmで、両者の間には統計学的に有意の差(p<0.01)が確認されている。プログレッシブ・サイドシフトは矢状面に対する角度で表され、その平均は7.5度で個人差はあまりみられない(Lundeen 1973)とされてきたが、この値は後になって保母により非作業側顆頭中心に定点をおくと12.8度となり約1.5倍になることが指摘された。この相違は機械式パントグラフの描記針が顆頭中心から離れたところにあるため顆頭中心から描記針までの距離に反比例して角度が小さくなったことに原因する。イミディエイト・サイドシフトとプログレッシブ・サイドシフトの組合わせは、側方運動のタイミングと呼ばれている。
側方運動中に、非作業側の顆頭が前下方に移動する経路を矢状面に描かせたものを矢状側方顆路と呼んでいる。矢状側方顆路と矢状前方顆路の角度的な差はフィッシャー角と呼ばれ、その平均は5度であるとされてきた。
最近の研究によればフィッシャー角を共通の電子的計測データ群について比較するとその平均値は-0.1度となり、フィッシャー角の平均値はほぼゼロになることが明らかとなった(保母、高山 1994)。このような結末になった理由は、従来用いられていた機械式パントグラフによる測定では顆頭の外側におかれた描記板でトレーシングが行なわれていたため、前方顆路よりも側方顆路のほうが経路が長く傾斜も大きめになる傾向があったためと考えられる。
矢状側方顆路が水平基準面となす角度を、矢状側方顆路傾斜度と呼んでいる。有歯顎者の側方顆路がフランクフルト平面となす角度は約45~50度である(Lundeen 1973)。電子的計測による矢状側方顆路傾斜度の平均値は、カンペル平面を基準として36.0度(中野 1976)、軸鼻翼平面を基準として30.7度(西ら 1992)、アキシス平面を基準として40.5度(保母ら 1992)であり、アキシス平面に換算した3者の平均値は約41度である。
側方運動時に切歯点によって描かれる運動路は側方切歯路と呼ばれこれを水平面に投影すると、ゴシック・アーチが描かれる。左右の側方切歯路が水平面上で互いになす角度(ゴシック・アーチの展開角)を側方切歯路角と呼び、その平均は120度(Gysi 1929)である。側方切歯路を矢状面に描かせることは困難で、また臨床的意義も少ない。しかし、前頭面に描かれる側方切歯路は、側方切歯路傾斜角と呼ばれ、Fischer(1926)によりその意義が主張された。その運動路は特徴ある屋根型をなし、その頂点は咬頭嵌合位を示し、左右の斜線は側方滑走運動路を表している。この運動路は、接触滑走する歯種や形態によって異なり、ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンでは上顎犬歯の舌面の形態を表し、グループ・ファンクションド・オクルージョンでは作業側の頬側咬頭の頬舌側斜面の影響を受け、またバランスド・オクルージョンでは作業側の頬側咬頭の頬舌側斜面の他、非作業側の咬頭傾斜も関係してくる。
電子的計測によつ側方切歯路角の平均値は150度(中野 1976)または143度(西ら 1972)で、いずれもGysiがゴシック・アーチの展開角として示した120度よりも20~30度大きい値を示している。この相違は、ゴシック・アーチ・トレーシングでは標点(描記針)が水平面(描記板)上を接触滑走することになり、上顎犬歯の口蓋面上を下顎犬歯の尖頭が接触滑走する上下顎歯接触条件下の下顎運動と相違するためであるが、両者の頂点(アペックス)は一致するので、ゴシック・アーチ・トレーサの性能には変わりなく、また実角でみると両者の計測値の間に大きな開きはない。
前頭切歯路傾斜度(側方切歯路の前頭面投影が水平基準面となす角度)は従来重視されなかったが、臼歯の咬頭形状と密接に関連する非常に重要な咬合要因であることが認識されるようになって、その電子計測値は平均30.9度(中野 1976)または31.6度(西ら 1992)でいずれも約31度という値が得られている。側方切歯路の矢状面投影の臨床的意義は少ないが、電子的計測値は平均62.7度(中野 1976)または59.2度(西ら 1992)で、いずれも約60度である。
習慣性側方運動は咀嚼時の終末に現われる運動で、空口時の側方滑走運動を含むため重要視されている。しかし習慣性側方運動は自由で、同一の軌跡をとることが少ないため、1つの決まった運動経路としてとらえることはできない。
【下顎運動の決定要素】
従来の下顎運動の研究は、顆頭の運動をとらえて解明することに重点がおかれ、また咬合器の顆路指導機構が複雑であったため、この方面により多くの注意が向けられてきた。そのため切歯指導機構がおろそかにされる傾向があった。切歯指導機構を優先するか、顆路指導機構を優先するかは、咬合器の指導機構のあり方を決定するうえで大きな意味をもっている。このことを結論づけるには、各々の要素についての詳細な科学的研究が必要である。
最近になって顆路と切歯路につき、あいついで新しい知見が得られた。従来顆路は患者ごとに固有のものという考え方があり、それにともない固定不変のものという通念が生じていた。顆路をくり返し測定したときのぶれ(Olivaら 1986)や、全運動軸の幅(河野 1968、鈴木ら 1987、西 1989)など顆路にぶれがあるということを示唆する計測結果が報告されていたが、いずれも顆路のぶれの計測を積極的な目的としたものではなかった。6自由度の下顎運動電子計測システムを用いて顆路の往路と帰路を比較計測した結果によると、顆路の往路と帰路は相違し、両者間に無視できない幅が認められた(保母ら 1995)。このため顆路を咬合の基準とする従来の概念に重大な疑問を生じた。
顆路の次に重視されてきたのは切歯路である。最近の電子的計測結果によると、切歯路には顆路のぶれのような誤差はないが、代わりに個体間のバラツキが存在するため、切歯路もまた咬合の基準に適さないことがわかった。
運動学的解析結果によると、臼歯離開には顆路と切歯路の他に咬頭傾斜が影響し、咬頭傾斜の影響率は切歯路のそれと同程度だが顆路のそれよりはるかに大きいことがわかっている。これは従来信じられてきたように顆路と切歯路により臼歯離開が発生するという考えが誤りであることを示し、咬頭傾斜角が大きな影響力をもつことを示している。咬合形態を計測したデータ(関川ら 1983、Kanazawaら 1984)によると、咬合形態のバラツキは10%以内で非常に小さくぶれのある顆路やバラツキのある切歯路に比べ約4倍の信頼度を有することがわかった。
以上から咬合の基準とすべきなのは顆路や切歯路ではなく、発生学的観点からみてもバラツキが少ない臼歯の咬頭傾斜角の標準値である、と考えられるようになった(保母ら 1995)。