犬歯誘導
- 【読み】
- けんしゆうどう
- 【英語】
- Cuspid guidance
- 【辞典・辞典種類】
- 新編咬合学事典
- 【詳細】
- 下顎の偏心運動を犬歯が誘導する作用。canine guidanceともいう。前歯誘導の一形態で、D’Amico(1958)により提唱された。GPT-6では、犬歯誘導をcanine protected articulationと呼び、ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの一形態で、犬歯の垂直的ならびに水平的被蓋が下顎の偏心運動中に臼歯を離開させる咬合様式、と定義されている。具体的には、側方運動中に上顎犬歯の口蓋面を下顎犬歯の尖頭(および下顎第1小臼歯の頬側咬頭の近心斜面)が接触滑走することにより発現する作用である。犬歯誘導により臼歯が離開し、下顎の偏心運動中の水平咬合圧が天然臼歯に与える有害な水平応力(ストレス)を避けることができる。D’Amicoの提唱は、天然歯の理想咬合とされているミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンが発案される契機となった。
【犬歯誘導の起源】
バランスド・オクルージョンは、偏心運動中にすべての上下顎両側臼歯を常時接触滑走させて水平咬合圧をなるべく多くの歯に分配しようとするものである。当初は総義歯の理想咬合として発案されたが、年月の経過とともに無歯顎、有歯顎を問わず広い意味の理想咬合とみなされるようになり、今世紀のはじめにはこれが既成概念となった。そのためナソロジーの創始者であるMcCollumも、オーラル・リハビリテイションの理想咬合としてバランスド・オクルージョンを採用している。
1958年、D’Amicoは、原始人やプレホワイト・インディアンの頭蓋骨について広範な人類学的研究を行ない、“The canine teeth”と題する論文のなかで次のような学説を提唱した。サルとヒトの共通の祖先と考えられる“化石のサル”は比較的大きな犬歯をもっていたと想像される。この化石のサルが進化してヒト的な特徴を備えるようになると、犬歯は小さくなり、その歯列には極端な切端咬合と咬耗が現われるようになった。この特徴は200万年前のAustralopithecus以来、2,000年前の弥生時代の人に至るまで、すべての原始人が共通して備えている。一方“化石のサル”から分化した別な子孫である今日の類人猿は、大きな犬歯をもち、開閉運動以外はほとんど行なわない。そして、その歯列には原始人にみられるような咬耗はみられない。原始人がひどい切端咬合と咬耗を備えたのは、彼らが硬い生肉や草木を、無理をして咀嚼したためと思われる。ヒトの歯は元来、食果‐食肉の中間形態を保持しており、雑食の形態をもっているわけではない。ヒトは雑食するために下顎を水平に動かさなければならなくなり、そのため雑食に適応できるように原始人の犬歯は退化して小さくなったのだと考えられる。
今日のゴリラやチンパンジーなどの類人猿は“化石のサル”の時代とあまり変化がない生活を営んでいる。柔らかい果実を食べるには下顎は開閉運動を営めば十分だから、類人猿の犬歯は小さくならなかったと考えられる。そのため彼らの臼歯は保護され、咬頭は原型を保っている。現代人は日常、果物に準ずるような柔らかい食物を摂取し、咀嚼時にあまり過度な水平運動を必要としないが、何10万代にわたって硬い食物を無理して咀嚼する習慣が定着しているため、どうしても不必要に水平運動を行なう傾向がある。そのため臼歯が咬耗されやすく、これが外傷性咬合や顎関節症をつくるひとつの原因となっている。古くから理想咬合と考えられてきたバランスド・オクルージョンは犬歯がもつ自然な機能を無視して、偏心運動中に上下顎の歯を接触させ、草食動物と同じような咬合様式をヒトにあてはめたものである。D’Amicoはバランスド・オクルージョンは、原始人にみられるような著しい切端咬合や咬耗のある歯列や頭蓋骨を参考にして考案されたものであるが、原始人にみられる咬合は決して正常なものではない、と述べている。
【カスピッド・ライズ】
D’Amicoは、上述した人類学的根拠に加え、次のような解剖的および生理的根拠をあげて、犬歯の優位性を主張している。犬歯は1)非常に緻密な歯槽骨壁によって囲まれ、わずかな刺激にも敏感であり、かつ2)歯根が歯槽に深く植立し、歯冠‐歯根比率が良好で、また3)顎関節から離れた位置にあって、強い咀嚼筋力(咬合力)の作用を受けにくい。さらに4)犬歯の歯根膜には感覚受容体があり、これが自己受性に働いて、下顎の位置や運動を制御できる。このような数々の根拠をもとにして、D’Amicoは犬歯誘導咬合を提唱した。この咬合様式では、犬歯が下顎を中心位へ誘導し、上下顎臼歯が咬頭嵌合位で噛み合うまで犬歯以外の歯は接触しない。また上顎犬歯は、側方運動中だけでなく、前方運動を含めたすべての偏心運動中に下顎を誘導する。そのため前方運動中にも上顎犬歯の遠心切端が下顎第1小臼歯の近心頬側辺縁隆線上を滑走する。そして上顎犬歯のオーバーバイトは、下顎が前方運動する間、対合する臼歯の咬頭どうしが接触するのを防ぎ、さらに切歯が切端咬合位になるまでは切歯どうしの接触を防いでいる。このような上顎犬歯と下顎犬歯、第1小臼歯の機能は、下顎がいかなる偏心運動を行なうときにも、上下顎の切歯・小臼歯・大臼歯に水平咬合圧が作用するのを防いでいる。そしてそれらの歯を支持している歯根膜の疲労を最小限におさえるのに役立つ。
【その後の知見】
D’Amicoの学説が発表されて以来、犬歯誘導咬合を付与した症例の多くは良好な結果をもたらしたが、その一方では、犬歯が負担過重になり、失敗する症例も報告されるようになった。その後このような失敗例に対する原因が追求され、適応症の選択が重視されるようになった。犬歯誘導咬合では、犬歯が単独ですべての水平咬合圧に抵抗するが、これは患者のチューイング・サイクルが垂直的で、しかも下顎運動が上顎犬歯の舌側面形態に調和する場合にのみ良好な結果をもたらす。患者のチューイング・サイクルが側方成分を多分にもつ場合には、水平咬合圧に耐えうるだけの強固な犬歯をもつ症例だけが、犬歯誘導咬合の適応症となる。犬歯が強固でない場合は、失敗に終わることが多い。ちなみにD’amicoが提唱した内容は、側方運動中だけでなく、前方運動中にも下顎の誘導を犬歯に担当させるカスピッド・ライズであった。しかしヒトの天然歯では、犬歯が前方運動を誘導することは稀であり、この点でカスピッド・ライズはあまりにも犬歯に役割りを求めすぎたので、その後犬歯誘導の適用は側方運動に限られcuspid guidanceまたはcanine guidanceと呼ばれるようになった。
D’Amicoは、犬歯の歯根膜には感覚受容体があり、これが自己受容性に働いて、下顎の位置や運動を制御できるとしたが、近年になって歯の歯根膜には下顎の位置や運動を制御するような感覚受容体はわずかしか存在せず、しかも固有受容体(自己受容体)はまったく存在しないことが明らかになった。このために、犬歯には他の歯よりも多くの固有受容体が存在するという見解は否定され、わずかな感覚受容体だけが犬歯による側方運動の誘導に関与するということが示された。犬歯が圧受容体などの感覚受容体によって保護されている間は、与えられたチューイング・サイクルを保持することができるが、いったんその許容能力の閾値を越えると、犬歯とその歯周組織は過度の水平咬合圧を負担することによって、外傷を被りやすくなる。したがって犬歯誘導咬合は、他の咬合様式を付与できない場合に限定して用いるべきであると考えられるようになった。
Schuyler(1961)は、カスピッド・ライズにおいて側方運動中に犬歯だけに咬合力を負担させることに疑問を感じ、側方運動中に作業側の全歯の頬側咬頭が接触し、非作業側の歯を離開させるグループ・ファンクションド・オクルージョンを提唱した。ちなみにこれは天然歯列にもっとも広く存在する咬合様式とされていたが、最近になってそれは誤りで、天然歯列において作業側のすべての歯が接触する症例は、全体の8%にすぎないことが判明した(保母、高山 1993)。またGPT-5(1987)から、作業側の接触歯数が犬歯を含む2歯以上と定義が変更され、用語もグループ・ファンクションと呼び変えられた。
ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンは、D’Amicoによる犬歯誘導咬合の提案を契機としてStallardとStuart(1963)により提唱された咬合様式で、当初は前方運動中には切歯が、側方運動中には犬歯が臼歯を離開させ、逆に咬頭嵌合位では臼歯が前歯を保護することを骨子としていた。D’Amicoの理論が紹介されると、上顎犬歯の舌面にピンレッジを装着するだけで手軽に臼歯離開を得ようとするオーラル・リハビリテイションが横行した。このピンレッジの製作にあたっては、下顎運動との関連は一切考慮されなかった。そのため犬歯の負担過重を招き、D’Amicoの術式は成功しなかった。Stallardは自分のいう理想咬合とはそのような安易なものではないとして、顆路と中心位を調和させた理想咬合像を提示し、D’Amicoのカスピッド・ライズと一線を画する趣旨で、オルガニック・オクルージョンという呼称を用いた。オルガニック・オクルージョンはその後Thomas(1967)によって数々の具体的な改良がほどこされ、臼歯離開咬合disocclusionとして歯科界に定着した。
Dawson(1974)はオルガニック・オクルージョンをさらに実用化し、犬歯単独で側方運動を誘導させたり、切歯だけで前方運動を誘導させるのではなく、理想的には下顎の偏心運動を常にすべての前歯によって誘導させることを目標とすべきであるとして、アンテリア・グループ・ファンクションを提唱した。今日、理想咬合として認められているミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンはこのような発展の結果、歯科界に定着したものである。ちなみにミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの咬合様式は、GPT-6(1994)で、咬頭嵌合位では臼歯が前歯の過度の接触を防止し、かつ下顎のすべての偏心運動中に前歯が臼歯を離開させる咬合様式と定義され、ツインステージ法の臨床術式(保母、高山 1995)もこの線上にある。今日では、犬歯誘導咬合はミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの一要件とされている。
歯は約5gの感圧能力を有するが、その閾値は臼歯より前歯のほうが高い(Lowenstein 1955)。河村ら(Kawamuraら 1967)は、被験者31名の各歯ごとに20gの負荷をかけて、負荷が加わっていると感じる歯を被験者が正しく指示した率により歯種ごとの感圧能力を調べた。その結果、中切歯から第2大臼歯まで後方(遠心)にいくほど的中率が小さくなり、歯種ごとの感圧能力が低下することがわかった。さらに的中率と歯根表面積の間で相関検定を行ない、その結果を分析して河村らは、歯の感圧能力は歯根表面積ならびに歯根膜内の感覚受容体の分布と感度の両方に依存すると結論している。河村らの知見は、犬歯誘導やミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの咬合様式が、感圧能力の高い前歯にガイド機能をゆだねるという点で、バランスド・オクルージョンに比べ生物学的合目的性において優れていることを示唆している。
Slavicekら(1982、84)は、咬合様式と筋活動の関係について、犬歯誘導が筋活動を低下させるのに対し、グループ・ファンクションは筋活動を高めると述べ、犬歯誘導を重視している。各歯の誘導路長は、中切歯、側切歯、犬歯、第1小臼歯、第2小臼歯、第1大臼歯および第2大臼歯の順に、それぞれ平均4.0mm、3.6mm、4.5mm、2.5mm、2.6mm、2.7mmおよび2.6mmで、犬歯の誘導路長がもっとも長い。
小林ら(志賀ら 1987、Shigaら 1988、Kobayashiら 1991)は、咀嚼運動自動分析装置を用い、側方運動中の咬合様式が明らかに犬歯誘導である被験者群と、同様にグループ・ファンクションである被験者群を比較し、咀嚼経路(チューイング・サイクル)、咀嚼リズム、筋活動のいずれの観点からも犬歯誘導群のほうがグループ・ファンクション群よりも安定していると結論している。
犬歯誘導は、ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの中核をなすコンセプトであるため、犬歯誘導という表現によりミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンを意味する場合が多いが、犬歯のみにより偏心運動をすべて誘導するという意味ではないので、誤解のないようにしなければならない。
江田(1982)は、日本人で歯科治療を受けていない成人を対象に、犬歯誘導とグループ・ファンクションの咬合形式について形態学的な研究を行なった。その結果、両形式の差は上下顎犬歯のオーバーバイト(垂直被蓋)の値の差と関連し、垂直被蓋の値は犬歯誘導で平均4.0mm、グループ・ファンクションで平均2.2mmと両者間に差があることが判明した。この垂直被蓋の差は下顎犬歯の尖頭の位置の差に起因するもので、上顎犬歯尖頭の位置には統計的に有意の差を認めなかった。このことは犬歯誘導に修復を加える際には、下顎犬歯の尖頭を延長すべきで、上顎犬歯の尖頭を延長すべきでないことを示している。下顎犬歯には、上顎犬歯に比較して歯軸方向の力が加わりやすく、さらに隣接面接触点を介して隣在歯に側方圧が分散するので、生体力学的にも理にかなった結論といえよう。
⇒前歯誘導