専門情報検索 お試し版

咬合器の再現機構

【読み】
こうごうきのさいげんきこう
【英語】
Reproducing mechanism of articulator
【辞典・辞典種類】
新編咬合学事典
【詳細】
下顎運動の再現または模擬のための咬合器の機構。歯科界の先人たちは、いかに正確に下顎運動を再現するかということをテーマにして、咬合器の改良を重ねてきた。石原(1972)は、文献上の記録にとどめぬものも含めれば、今までにおそらく数百種以上の咬合器が考案されたと思われるが、その数だけ下顎運動に対し異なった考え方が存在することになる、と述べている。そういった意見で咬合器の下顎運動再現機構にはさまざまな考え方がある。
【セントリックの再現機構】
咬合器に求められるもっとも大切な機能は、セントリックを保持することで、これが不完全な場合は他の機構がいかに優れていても咬合器としての実用性はないといってよい。“何が何でもセントリック”という村岡(1990)の表現は、セントリックの採得や咬合調整を含めた、古今を通じて不動の鉄則をいい表している。咬合器の上下顎フレームをセントリックに保持する機構をセントリックラッチ(ロック)という。アルコン型咬合器ではスプリングのついたレバー式のものが多く、コンダイラー型咬合器ではスクリュー式のものが多い。ラッチをかけると、咬合器は純粋な開閉運動のみを行なうようになる。
【開閉軸の再現機構】
顆頭が下顎窩内の前上方に位置するとき、開閉運動の初期段階(開口量8mm前後)では下顎は蝶番回転のみを営み、平行移動は行なわない。このときに左右の顆頭を貫く仮想の回転軸をトランスバース・ホリゾンタルアキシスと呼ぶ。この軸が患者の皮膚面を貫通する点は後方基準点と呼ばれ、フェイスボウ・トランスファ操作時にこれを利用することにより、両顆頭点の位置と歯列との立体的相対位置関係が咬合器上に再現される。
このときフェイスボウの左右のスタイラスの尖端を結ぶ線が、咬合器の開閉軸と正確に一致するように調節する機構を開閉軸の再現機構と呼ぶ。調節性の優れた咬合器はこの機構を備え、スチュアート咬合器のように咬合器上に直接伝達できるものと、ホビー咬合器のように専用のトランスファ・ジグを使って伝達するものと2種類がある。開閉軸の再現機構を用いると左右の後方基準点を結ぶ顆頭間軸の中点が咬合器の正中と一致し、これと直角に矢状面が交わるように設定できる。平均値法で求めた後方基準点を用いるときはこの再現機構は役立たない。
【顆路の再現機構】
矢状顆路、水平側方顆路(非作業側)、作業側顆路に分けて記述する。
1)矢状顆路
生体の下顎窩の前壁を形成する関節結節の後方斜面は、顆路と密接な関係をもっている。前方運動中に顆頭はこの斜面に沿って前下方へ移動し、このときの運動路を矢状面に投影したものを矢状前方顆路と呼ぶ。側方運動中に非作業側の顆頭は前下内方に向かって移動し、この運動路を矢状面に投影したものを矢状側方顆路と呼ぶ。矢状前方顆路と矢状側方顆路を同時に再現できるものを全調節性咬合器と呼び、両者のうち一方しか再現できないものを半調節性咬合器と呼んできた。これらの顆路が水平基準面となす角度を、それぞれ矢状前方顆路傾斜度、矢状側方顆路傾斜度と呼び、その緩急は咬頭の高さと窩の深さに影響するとされ、従来は非常に重視されてきた。
矢状前方顆路と矢状側方顆路の傾斜度の差はフィッシャー角と呼ばれ、その平均は5度とされてきた。全調節性咬合器では両者の個別調節が可能だが、半調節性咬合器ではいずれか片方だけにしか合わせることができない。最近の電子的研究による矢状顆路傾斜度の計測データを比較検討した結果、生体の顆頭部における矢状顆路傾斜度は前方運動と側方運動のいずれにおいても平均約40度(アキシス平面基準)で、フィッシャー角の平均値はほぼ0度であることがわかった。ちなみにここでいうアキシス平面とはトランスバース・ホリゾンタルアキシスと上顎右中切歯切端から眼窩下縁中点に向かい43mmの点を含む水平基準面をいう。
フィッシャー角の平均値がほぼ0度であるという結果からすると、平均的には前方運動と側方運動とで矢状顆路傾斜度を区別する必要はなくなった。ただし個体ごとの計測結果ではフィッシャー角はプラスかマイナスかの値を示すことが多く、その点でまだ不分明な部分を残しているが、フィッシャー角は矢状顆路の往路と帰路の差より小さく、かつ顆路の臼歯離開量への影響が非常に小さい、という2つの理由から咬合器の矢状顆路傾斜度に前方運動と側方運動の差を付与する必要はないと結論できる。
顆路とその傾斜度は、咬合器の矢状顆路調節機構によって再現される。全調節性咬合器では、矢状顆路はパントグラフによって計測され、トレーシングの彎曲と一致するような曲面をもつエミネンシアを咬合器の関節部に固定することにより再現される。半調節性咬合器では、チェックバイト法により矢状顆路傾斜度が計測される。チェックバイト法は下顎の移動した位置と中心位との間の経路を直線的に求める方法で、顆路は直線的に再現される。そのため半調節性咬合器の顆路も直線になっている。92%の矢状顆路は下方に向かって凸の弧を描く(Aull 1965)ので、チェックバイト法により半調節性咬合器上に再現される矢状顆路は実際の顆路よりも緩やかになる傾向がある。チェックバイト法により半調節性咬合器の顆路を調節する方法は、全調節性咬合器を用いる場合に比べて精度が低い。
矢状顆路の彎曲の円弧の直径の最小値は約10mmで、その発生頻度は34%であった(Aull 1965)。従来ナソロジーでは、全調節性咬合器を用い顆路の彎曲を再現するのが理想とされ、種々の彎曲をもつエミネンシアを何種類か用意してトレーシングに合わせてさし変えたり、削合するといった努力がはらわれてきた。最近の電子的研究でも矢状顆路が下に向かって凸の彎曲形状を示すという知見については変わりはないが、このような彎曲形状が顕著に現われるのは5~10mmの長さのトレーシングを描かせたときで、われわれが計測するのは上下顎歯の咬頭頂が対向関係にある中心位から2~3mmの範囲である。この範囲では顆路はほとんど直線状になる。ちなみに彎曲形状の円弧の直径が最小値の10mm、弧の長さが3mmのとき、円弧状トレーシングとその直線近似との間に生じる誤差は±5度にすぎない。これは矢状顆路のぶれよりも小さい。したがって、咬合器の矢状顆路は直線的で十分であり、彎曲形状の必要はない、と考える。すなわち、この意味では全調節性咬合器を用いて顆路の彎曲形状を再現する必要はなく、直線的な顆路をもつ半調節性咬合器で十分である、と結論される。
2)水平側方顆路(非作業側)
側方運動中に非作業側の顆頭は前下内方に移動するが、このときの運動路を水平面に投影したものを水平側方顆路と呼んでいる。側方運動の開始直後に非作業側の顆頭がトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を正中方向へ向かう部分をイミディエイト・サイドシフト、その後に作業側の顆頭の回転と外側移動につれて発生する前内方へ向かう部分をプログレッシブ・サイドシフトと呼ぶ。水平側方顆路が正中となす角は水平側方顆路角(ベネット角)と呼ばれ、その平均はGysi(1929)により13.9度とされてきた。Lundeen(1973)が顆頭間距離220mmの位置に固定したプラスチック製のブロックにエアタービンで側方運動時の軌跡を掘りこませたところ、プログレッシブ・サイドシフト角はほとんど7.5度に一定し、個人差の認められたのはイミディエイト・サイドシフトであったと報告した。しかし保母(1982)が電子計測システムを使い顆頭間距離110mmの点の運動軌跡を測ったところ、その平均は12.8度となり個人差が認められた。この差はLundeenの測定点が解剖的顆頭中心の外側にあったためである。
水平側方顆路を咬合器に再現する方法には次の3つがある。
・側方運動の回転中心は顆頭の後外方にあり、水平側方顆路に立てた法線が、この回転中心を通過するように設定すればよいというGysiの軸学説を基盤とする説で、非作業側顆路が咬合面に及ぼす影響は軽微で、臨床的にはほとんど問題にならないから、水平側方顆路は平均的に与えれば十分であるという考え方。この説に従えば、ベネット角は平均値を用いれば十分ということになる。ちなみにGysiはトゥルーバイト咬合器のベネット・ディグリー・プレートを通常2.5目盛りに合わせるようすすめており、これによって再現されるベネット角は約15度になる。軸学説とはまったく関係ないが、Hanauが提案したL=H/8+12(L:ベネット角、H:矢状顆路傾斜度)という式により、矢状顆路傾斜度からベネット角を算出する方法もこの分類に属し水平側方顆路角は15度近傍に落ちつく。
・非作業側顆路が咬合面に与える影響は大であるから、可能な限り正確に咬合器上に再現しなければならないとする考え方。非作業側の咬頭干渉を避けることが常識とされるようになって以来、有歯顎の理想的な補綴術式としては、この考え方がもっとも支持者が多かった。顆路はパントグラフで計測され、全調節性咬合器上に再現することになる。このような考え方はMcClollumらによってはじめられたが、彼はナソスコープ咬合器のベネットガイド・ウィングの内壁を顆路の彎曲に合わせて削合する方法を考案している。また再現性を高めるために、水平側方顆路の調節機構と作業側顆路の調節機構を分離させた2軸性機構を案出している。その結果、作業側顆路の影響を受けることなく、イミディエイト・サイドシフトとプログレッシブ・サイドシフトの大きさとタイミングが精密に調節できるようになった。
・チェックバイト法により水平側方顆路を再現する際に用いられる方法で、上記2者の中間に位置する。代表的なのは前述したLundeenの知見に基づきプログレッシブ・サイドシフト角を7.5度に固定し、イミディエイト・サイドシフトで調節する方法である。また保母(1984、84)はプログレッシブ・サイドシフト角とイミディエイト・サイドシフトの間に弱いながら相関のあることを利用して、チェックバイト法により求めたベネット角から前2者を求める方法(IPB法)を提案している。
Wachtelら(1987)は、イミディエイト・サイドシフトの調節が可能な全調節性咬合器と、調節のできない半調節性咬合器の第1大臼歯に3次元的なトレーシング装置を取りつけ、イミディエイト・サイドシフトの量を変化させて比較した。その結果、半調節性咬合器では水平面と前頭面の咬頭路に顕著な差が認められたことから、咬合器にはイミディエイト・サイドシフトの調節機構を具備する必要があると述べている。
イミディエイト・サイドシフトは水平側方運動のごく初期に生じるものである。つまり下顎が側方運動を起こすと同時に下顎全体がまず作業側に向けて平均0.4mm平行移動し、それから側方旋回運動に移る。この単純なサイドシフトの大きさはその有無を含めて個体間でバラツキ(0~2.6mm)がある(保母、望月 1982)。これを咬頭形状に反映させようとする場合には、対合歯の窩に噛みこんだ咬頭頂が作業側に向けてイミディエイト・サイドシフト量だけ移動できるように、対合歯の窩の側壁を削合して隙間centric slideをつくらなければならない。ナソロジーではこの作業が標準ルーチンのひとつとされていた(Solnitら 1988)。しかし、この削合作業は実際にはなかなか難しく、かつ本来ずれがあってはならないセントリックに水平方向のずれを人為的につくってしまうことになるという矛盾があり、大事なセントリック・ストップを失なうおそれがあった。
レジン製口腔内ガイドテーブルを用い臨床実験を行なった際に、前歯誘導の修正によりイミディエイト・サイドシフトを消失させる可能性を示唆するデータが得られた(保母、高山 1995)。イミディエイト・サイドシフトはもともと顎関節に緩みloosenessがある状態のところに、歯の咬合面部にもセントリック・スライドがあるために発現すると考えられる。したがってセントリック・スライドがなければ発現しないはずである。いい変えると、前歯部にセントリック・スライドのない安定した前歯誘導を付与すれば、それに下顎が誘導されてイミディエイト・サイドシフトをともなわない運動を営む可能性がある。したがって咬合器にイミディエイト・サイドシフトの調節機能は必要ないという考え方が導かれる。
パントグラフ計測時のように上下顎歯列にクラッチを装着した上下顎歯の非接触条件下では、ベネット角の計測値は最大50度近くに達する(保母 1982)のに対し、上下顎歯接触滑走条件下では、ベネット角の計測値は最大24度にしかならない(中野 1976)。このようにベネット角は計測条件(クラッチか歯の接触滑走か)により大きく異なるため、精密に計測しても歯の接触関係が修正されれば変化するおそれがある。そのためこれを個々に計測しても期待するような効果が得られるか疑問である。
歯の接触条件下におけるベネット角の平均値に標準偏差値を加えた値は17度である。そしてベネット角が17度から歯の接触条件下における最大値の24度の間に分布するのは全体のわずか16%にすぎない。したがって、正常者の天然歯列における標準的なベネット角としては15度が適切で、これを咬合器の調節値として用いるのがよいと判断される。15度という値は咬合器の目盛りが5度刻みになっていることから選択した値である。この値は期せずしてGysiやHanauのそれと一致している。
3)作業側顆路
側方運動中に、下顎は作業側の顆頭を中心として側方旋回を行ないながら、全体として外側方へ平行移動する。この外側方への平行移動にともなう作業側顆頭の移動は従来ベネット運動と呼ばれていたが、非作業側顆頭の移動(イミディエイト・サイドシフトまたはプログレッシブ・サイドシフト)と合わせて、GPT-6では下顎の側方平行移動(マンディブラ・トランスレイション)と総称されるようになった。そのうえで、下顎の側方平行移動により発生する作業側顆頭の運動はラテロトゥルージョンと呼び変えられている。作業側顆路は非作業側顆路に比べて長さが短いが、その方向は広範囲にわたり、全体として多種多様な様相を呈する。この運動路を生体と同じように再現するにはかなり精密な調節機構が要求されるため、その再現精度を追求した結果が複雑な調節機構を有する全調節性咬合器を登場させる最大の動機となった。
McCollumの考えた2軸性機構では、さきに決定した顆路指導要素が、もう一方の顆路指導要素の調節中に影響を受けるという、それまでの調節性咬合器の欠点が解消された。この機構はスチュアート咬合器において完成され、ボックス型をしたハウジングの上壁と後壁の傾斜方向を変えることにより作業側顆路の方向を決定している。そして非作業側におかれたベネットガイド・ウィングを削合することにより、顆路のタイミングを決定している。この機構は同時に非作業側顆路を決めるうえでも役立っている。
デナーD4A咬合器では、非作業側顆路調節機構と作業側顆路調節機構の双方が1つのボックス型のハウジングに組みこまれている。このハウジングの近心壁は非作業側水平側方顆路を指導し、上壁は矢状前方顆路と非作業側矢状側方顆路および作業側側方顆路の上下的要素を指導する。そして後壁は作業側側方顆路の前後的要素を指導する。この咬合器の上壁は前方顆路と非作業側顆路の指導を共有しているため、両者の傾斜が相違するときに個々に調節することはできない。この類いのことはどの全調節性咬合器にもみられ、もっとも精巧とされるスチュアート咬合器でさえ、非作業側の矢状顆路と作業側の顆路の上下的、前後的調節の際に同じハウジングの上壁を調節しなければならないので、咬合器の運動をパントグラフのトレーシングに合わせるのに試行錯誤をくり返し、最適調節状態を求めることが要求される。パントグラフと全調節性咬合器により作業側顆路を含む下顎の立体的な動きがかなりの程度に再現されるようになったが、その計測と調節には熟練者でも半日前後の時間を必要とするため、高い計測精度と作業効率を得るには高度の電子計測技術を用いたパントグラフのコンピュータ化が求められるようになった。一方このような方向ですべての歯科医が日常臨床で使用する機器の開発を期待するのは現実的でないので、いわゆる“下顎運動の再現”のための必要精度の基準の設定が肝要と考えられるようになった。
コンダイラー型咬合器とアルコン型咬合器では再現する作業側顆路の方向は異なる。ハノーH型咬合器やデンタータス咬合器のようなコンダイラー型半調節性咬合器では、顆頭間軸が顆頭球を真横に貫通するような構造をもっている。そのため、これらの咬合器では、作業側顆路は顆頭間軸の延長線上に規制されている。またアルコン型のウイップミックス咬合器やパナホビー咬合器のような半調節性咬合器では、作業側顆路はボックス型のハウジングの後壁によって規制されるため、トランスバース・ホリゾンタルアキシス上を移動する。半調節性咬合器に分類されているアルコン型咬合器のなかでも、コスマックス咬合器やテレダイン咬合器のように後壁が上下的または前後的に調節できるものもあったが、これらはこの点に関する限り全調節性咬合器との中間タイプということができよう。
平均作業側顆路はトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を真横に向かい、矢状面内偏位を行なわない(保母 1982、84)。作業側顆路がトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を真横に向かうと想定した場合の切歯点の仮想路をニュートラル・ラインと呼ぶ。側方切歯路がこれから外れると作業側顆路に矢状面内偏位を生じる(Hobo、Takayama 1989)。口腔内にニュートラル・ラインに沿ったレジン製ガイドテーブルを装着して作業側顆路を制御すると、作業側顆路の矢状面内偏位が平均約4分の1に減少した(保母、高山 1997)。以上から、作業側顆路の矢状面内偏位は不良な前歯誘導によってもたらされると考えられ、もし患者の作業側顆路の矢状面内偏位を咬合器上に精密に再現して前歯の補綴を行なった場合、それは不良なものになるおそれがある。そのため従来ナソロジーでいわれてきたように作業側顆路の矢状面内偏位を無理して実測し、咬合器上に再現するのは疑問で、むしろ作業側顆路がトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を真横に向かうように咬合器を調節して、切歯路を形成するほうが生理的な前歯誘導を備えた補綴物が得られるという見解に到達した。
もしこの見解が誤っていないとすると、従来の定説と相違するが、全調節性咬合器ではなく、作業側顆路がトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を真横に向かうような半調節性咬合器を“正しく”使うことにより、作業側顆路と調和する生理的な前歯部の補綴が可能になるということになる。
以上からあえて全調節性咬合器を選択する必要は少なく、半調節性咬合器を選択できる場合が多い、と結論できる。ちなみに作業側顆路がトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を真横に向かうという点だけならば、非調節性咬合器も上記の範疇に入るが、顆路調節機構と切歯指導機構がコントロールできないため合理性の観点からみて不十分である。
【顆頭間距離の再現機構】
顆頭間距離再現機構は、咬合器の左右の関節部を顆頭球ごと開閉軸と平行に移動できる機構で、生体の顆頭間距離に合わせて咬合器の顆頭球間の距離を調節するために用いられる。咬合器の再現性を高める調節要素のひとつとして、調節性の高い咬合器に備えられている。1914年に、シュレーダー・ランペル咬合器にはじめて取り入れられたが、現在使用されている咬合器ではスチュアート咬合器、デナーD5A咬合器、サイバーホビー咬合器などの全調節性咬合器の他、ハノー・ユニバーシティ130咬合器、ウイップミックス咬合器などの半調節性咬合器にも備えられている。
顆頭間距離の調節機構を備える目的は、顆頭間距離が咬合器の運動にともなう咬頭路に多少なりと影響するからである。以下に示すようにその影響度は、生体の顆頭間距離のバラツキの範囲内では、切歯路や顆路ほどに大きくはないが、生体の咬頭路の厳密な再現を目指す場合に顆頭間距離の影響をまったく無視してよいとはいえない。ちなみに市販の小型咬合器のように顆頭間距離が生体の2分の1前後しかない場合には、咬合器の関節部に補正構造を付加しないと咬頭路に大きな誤差を生じるため、デンタル・ミニエース咬合器のようにボックス型顆路の後壁に特殊な機構を付加してその誤差を修正したものもある。
顆頭間距離の調節は、生体の左右の後方基準点をフェイスボウで測定し、それに咬合器の顆頭間軸を合わせることによって行なわれる。フェイスボウで計測した顔面間距離(顔の幅)から生体の左右皮膚面から顆頭中心までの距離を減じたものが顆頭間距離となる。一般にはフェイスボウで求めた顔面間距離から、40mm(片側の皮膚面上の後方基準点から最寄りの顆頭中心までの平均的距離である20mmの2倍)を差し引いた値が顆頭間距離となる。パントグラフを用いるときは左右の前方描記板に描かれた側方描記ラインに立てた法線の2つの交点間距離として求める。
咬合器の顆頭間距離の再現機構の必要度を定量的に評価するため、下顎第1大臼歯の咬頭路に対する影響度をコンピュータ演算により算出した。顆頭間距離は前方運動における咬頭路には影響しないので、非作業側および作業側咬頭路についてのみ算出した(保母、高山 1995)。
1)非作業側の咬頭路への影響
表1は、側方運動非作業側において、顆頭間距離を10mm増加したときの咬頭路への影響度を、水平側方咬頭路および前頭側方咬頭路に及ぼす変化で示したものである。顆頭間距離の変化は前頭側方咬頭路傾斜度にはあまり影響せず、前頭面ではほとんど無視できるが、水平側方咬頭路角には中程度の大きさで影響し、顆路の約2倍の影響度をもつが、切歯路に比べると約5分の1である。
2)作業側の咬頭路への影響
表2は、側方運動作業側において、顆頭間距離を10mm増加したときの咬頭路への影響度を、水平側方咬頭路および前頭側方咬頭路に及ぼす変化で示したものである。非作業側におけると同様に、顆頭間距離は、前頭側方咬頭路傾斜度にはあまり影響せずにほとんど無視できるが、水平側方咬頭路角には作業側におけるよりさらに大きく影響する。顆路の影響も増えるのでほぼ同程度となり、切歯路に比べると約4分の1である。
以上のように、顆頭間距離の咬頭路への影響度は従来一般に考えられてきたほど大きくはなく、かつその影響はほとんど水平投影面内に限られ、前頭面内では無視できるほどに小さい。

(表1 非作業側)
前頭側方咬頭路 下方へ向かい0.3度(0.3度)
水平側方咬頭路 遠心に向かい1.9度(1.9度)

(表2 作業側)
前方側方咬頭路 上方へ向かい0.3度(0.5度)
水平側方咬頭路 遠心に向かい2.8度(3.1度)

【切歯路の再現機構】
咬合器の切歯路の再現機構は切歯指導桿と切歯指導板から構成されている。切歯指導桿incisal pole、anterior guide pinは、上顎フレームの前方に取りつけられ、下顎フレーム前方に取りつけられている切歯指導板incisal table、anterior guide tableにより下方から受けとめるような構造になっている。GPT-5(1987)でanterior guide pinは、“咬合器のフレームのひとつに固定された剛性の棒で、他のフレームに取りつけられた切歯指導板に接触させて使用される構成部品。咬合高径を保持する目的に用いられる。切歯指導板と指導桿は、顆路指導機構と連帯して、咬合器の上下顎フレームの相対運動を指導する”、anterior guide tableは、“切歯指導桿を支持することによって、咬合高径を保持し、咬合器の運動の制御に関与する咬合器の構成部分。この部分はあらゆる場合に歯列模型の離開度に影響する”、とそれぞれ定義されている。
ちなみに上記のようにGPT-5から従来のincisal pole、incisal tableはそれぞれanterior guide pin、anterior guide tableと呼称変更されている。切歯路の再現機構は、切歯の誘導機能を代行するだけでなく、犬歯を含む前歯の誘導機能を咬合器上で代行する機構である。この観点に立つとGPT-6の呼称変更は妥当なものと考えられるが、切歯指導桿(または釘)および切歯指導板という用語はわが国に定着しているので、本事典では従来呼称を用いることとした。しかし近い将来機会をみてこれら2つの用語の冠頭詞を切歯から前歯へと改めることは有意義であろう。
切歯指導板は上顎前歯口蓋面の役割りをなし、切歯指導桿は下顎前歯の機能を代行する。切歯指導板には2種類ある。1つは、金属製で調節機構を備えた切歯指導板である。樋状の形状をもち、その指導要素が固定された非調節性のものと、指導要素が可変の調節性のものとがある。後者では、矢状傾斜度と前頭側翼角を調節できるようになっている。
他の1つはプラスチック製で凹陥形状を有し、これを削合修正したり、凹陥部に即時重合レジンを添加して各個調整することができる。各個調整された凹陥部が上顎前歯の舌面形状に似て球面状に再現されるので、従来再現性がよいと考えられていた。しかし既存の前歯部を基準にして調整されるため残存前歯により前歯誘導が問題なく行なわれる症例でないと再現できない難点がある。切歯指導桿の先端により形成されるドーム状の彎曲した凹型の陥没は、切歯路の形状を表したものでなく、また上顎前歯部舌面の凹型形状を裏返したものでもない。これは切歯点の動きにともなって切歯指導桿の半球状先端部により形成された包絡面にすぎない。前歯誘導を前歯部の1点、たとえば切歯点を標点として電子的下顎運動計測装置により計測すると、その運動軌跡は水平面投影でも前頭面投影でも、ちょうど矢印の頭部のように屋根状のかたちを呈し、正常咬合者では偏心運動中に上下顎歯が接触滑走する2~3mmの範囲ではほとんど直線状になる。このことは電子的下顎運動計測装置を用いなくても、水平面投影についてならば、ゴシック・アーチ・トレーサを用いれば誰でも視覚的に確かめることができる。したがって、切歯指導桿の先端が半球状ではなく尖った形状であるとすれば、切歯点の運動軌跡は直線的な屋根状になる。以上から咬合器の切歯指導板は直線でさしつかえないと結論できる。
切歯指導桿にはその軸が直線状のものと開閉運動の半径に合わせた円弧を備えたものとがあり、後者では垂直顎間距離を変えても切歯指導板上におかれた桿の尖端位置は常に一定に保たれる利点がある。切歯指導桿には垂直顎間距離を調節する目盛りがつけられている。Mansuetoら(1985)は、咬合器の切歯指導桿の目盛り精度を3種の咬合器について比較し、Stuart咬合器の切歯指導桿の目盛り精度は低く、デナーD5AとTMJのそれは良好であったと述べている。
咬合器の切歯指導機構により再現される切歯路はポッセルトの図形と呼ばれる切歯点の運動範囲菱形柱の上面で、最大嵌合位の前方で半径2~3mmの部分に現われる凸型の三角ピラミッドに相当する部分である。その三角ピラミッドの稜線の水平面投影や前頭面投影がそれぞれゴシック・アーチ形状の水平側方切歯路角と、前頭側方切歯路傾斜度になる。そしてこの凸型三角ピラミッドを裏返したのが樋状切歯指導板の形状になる。Gysi、Fischerの提案した樋状形状は切歯指導板の合理的な姿で、その形状が直線的なため調節値が定義しやすいという特長を有している。この樋状切歯指導板は中心溝の左右に2枚の側翼がちょうど航空機のフラップのように取りつけられており、中心溝の傾き角と側翼のあおり角が調節可能になっている。前者を切歯指導板の矢状傾斜度、後者を側翼角と呼んでいる。
従来、とくに有歯顎における切歯路の調節は顆路の決定後に付随的に行なわれ、その意義も咬合器の前方で上下顎模型の垂直顎間距離を保つことにより咬合器を安定させ、咬合器に偏心運動をさせるときに石膏模型が破損するのを防止することなどの、きわめて消極的な意味しかもっていなかった。これは従来の咬合学において前歯誘導が臼歯離開に及ぼす役割りについて実証科学的に解明する手法をもたなかったため、臨床の場で具体的に“ではどうするか”という答えを導けなかったからであると考えられる。この点に関しては、ナソロジーの創設者の1人であるStuartが1982年1月に没する直前に編者らの1人(保母)に対し“アンテリア・ガイダンス(前歯誘導)はわからない”という率直な感想private communicationを洩らしていることでもわかる。切歯指導板の使用法が明らかにされていなかったため、咬合器に付属された樋状切歯指導板の実用効果は長いあいだ曖昧模糊としたままにされていた。ごく最近になって切歯指導機構の臼歯離開量に及ぼす影響力が顆路指導機構のそれに比し第1大臼歯で3倍、第2大臼歯でも2倍に達するという解析結果が明らかにされた(保母、高山 1995)。
Gysi以来、咬合器の切歯指導板の矢状傾斜度は咬合器の顆路に平行に調節すればよいというのが通念になっていた。もし咬合器の矢状顆路が40度で切歯指導板の矢状傾斜度を40度に調節してワクシングを行なえば、40度の咬頭傾斜角をもった咬頭がつくられ、これでは急すぎることになる。さすがにGysiはこれに気づき、顆路が急傾斜な場合は切歯指導板の矢状傾斜度を“適当に”調節しなければならないとしているが、その具体的方法は示されていない。これはGysiの軸学説における側方咬合軸は運動学でいう瞬間回転軸の性格をもっていたため、キネマティックな解析が行なえなかったためであろう。
最近の電子的計測と運動学的解析により、臼歯離開の要因は顆路、切歯路、咬頭傾斜の3つからなることが示され、さらに臼歯離開のメカニズムが定量的に解明された。その結果、顆路を測定せずに、樋状切歯指導板を備えたツインホビー咬合器を用いて、標準値の臼歯離開を付与することを骨子とした新補綴臨床術式ツインステージ法が開発された(保母、高山 1995)。これは、咬頭傾斜角の基準値をもとに、咬合器を下顎運動の再現装置でなく、シミュレータとして用いる補綴術式である。2つのステップからなり、第1ステップでは咬合器の顆路と切歯指導板を“条件1”の値に調節して、臼歯部の咬頭形態をワクシングして基準値の咬頭傾斜角を付与し、第2ステップでは“条件2”の値に調節して、前歯誘導を付与することによって標準値の臼歯離開量を発現させる。作業模型の前歯部は可撤構造にしておき、第1ステップは前歯部を撤去した状態で、第2ステップは前歯部を装着した状態で実施する。
従来、下顎三角の前方頂点を指導する切歯指導板の調節に明確な指針が示されていなかった。これは極論すれば前歯誘導の構築が術者の恣意にゆだねられていたことになり、歯列部における偏心位の咬合がまったく制御されない状態にあったことになる。ツインステージ法によりこの点が改められ切歯指導板の新しい使い方が開発されたため、従来発想されたことのなかった補綴物の品質管理の道が開けたといえよう。