矢状顆路
- 【読み】
- しじょうかろ
- 【英語】
- Sagittal condylar path
- 【辞典・辞典種類】
- 新編咬合学事典
- 【詳細】
- 下顎が前方または側方へ運動するとき、矢状面内で顆頭が示す運動経路。それが発現するときの下顎運動の種類により2つに分けられる。1つは下顎が前方運動を営むときに現われるもので、矢状前方顆路と呼ばれる。他の1つは、下顎が側方運動を行なうときに非作業側に現われるもので、矢状側方顆路と呼ばれる。矢状顆路の性状は関節結節の形態と密接な関係をもち、通常関節結節は下に向かって凸の彎曲をもっているが、矢状顆路もこれとほぼ同様な曲線を示す。有歯顎者の関節結節は高く急で、矢状顆路もこれに沿ってはっきりとした彎曲を示すことが多い。無歯顎者の関節結節は平坦なため矢状顆路も直線的になる。Aull(1965)は、矢状前方顆路が直線を示したのはわずか8%で、92%は彎曲を示したと報告している。矢状顆路の彎曲は従来下方に凸のS字状をなすとされてきたが、最近の電子的下顎運動計測装置を用いた計測データを観察すると、往路の矢状顆路では初期から下降線をたどって下方に凸の彎曲を描くものが多く、従来の機械式パントグラフのトレーシングにみられたようにはじめ前突気味に緩やかに下降したのち急な下降線となるS字軌跡がほとんどみられない。これは計測装置の違いというよりも従来の機械式パントグラフでは最後退位から測定をはじめたため、術者が強く押した反動で、はじめ顆路が前方にごくわずか突出し、その後自然な顆路をとっていたのではないかと考えられる。
最近の電子的研究においても矢状顆路が下に向かって凸の彎曲形状をなすという知見については変わりはないが、このような彎曲形状が顕著に現われるのは5~10mmの長さのトレーシングを描いたときで、通常、計測するのは上下顎歯の咬頭頂が対向関係にある中心位から2~3mmの範囲である。この長さでは顆路はほとんど直線状になる。このことは彎曲形状の円弧の直径が10mm(最小値)、弧の長さが3mmのとき、円弧状トレーシングとその直線近似との間に生じる誤差が±5度にすぎないことからもうなずけるであろう。
矢状前方顆路は一般に矢状側方顆路よりも短く、その傾斜度も緩やかである。矢状前方顆路が水平基準面となす角度を矢状前方顆路傾斜度と呼び、矢状側方顆路が水平基準面となす角度を、矢状側方顆路傾斜度と呼んでいる。両者の角度的な差はフィッシャー角と呼ばれ、その平均は5度とされてきた。共通の電子的計測データ群について比較するとその平均値は-0.1度となり、フィッシャー角の平均値はほぼゼロになることが明らかとなった(保母、高山 1994)。このような結末になった理由は、従来用いられていた機械式パントグラフによる測定では顆頭の外側におかれた描記板でトレーシングが行なわれていたため、前方顆路よりも側方顆路のほうが経路が長く傾斜も大きめになる傾向があったためと考えられる。
有歯顎者の矢状前方顆路がカンペル平面となす角度は平均33度で(Gysi 1929)、アキシス・オービタル平面となす角度は平均約40度である(Lundeen 1973)。波多野ら(1987)は、機械式パントグラフでアキシス平面を基準として正常者とクリック既往者の矢状前方顆路を計測し、前者では平均38.2度で、後者では平均45.5度で、両者間に有意の差を認めている。電子的計測による矢状前方顆路傾斜度の平均値は、カンペル平面を基準として37.5度(中野 1976)、軸鼻翼平面を基準として30.8度(西 1992)、同じく35.6度(小川ら 1992)、アキシス平面を基準として39.1度(保母ら 1992)である。このように基準とする水平基準面が異なる矢状顆路傾斜度を比較するときは各水平基準面間の傾きを補正した換算を行なわなければならない。アキシス平面に換算した上記4者の電子的計測データの平均値は約42度である。ちなみにアキシス平面とは、トランスバース・ホリゾンタルアキシスと上顎右切歯切端から眼窩下縁中点に向かい43mmの点を含む水平基準面をいう。アキシス平面を基準とした矢状顆路傾斜度をカンペル平面に換算するには4.3度、軸鼻翼平面に換算するには10.0度を差し引けばよい。
有歯顎者の矢状側方顆路がアキシス・オービタル平面となす角度は平均45~50度である(Lundeen 1973)。電子的計測による矢状側方顆路傾斜度の平均値は、カンペル平面を基準として36.0度(中野 1976)、軸鼻翼平面を基準として30.7度(西ら 1992)、アキシス平面を基準として40.5度(保母ら 1992)であり、アキシス平面に換算した3者の平均値は約41度である。
矢状顆路は個人によってさまざまに異なるため、下顎運動との関連が指摘され、古くから多くの研究がなされてきた。下顎運動の研究の初期にWalker(1896)は独自の測定装置クリノメータを開発し矢状顆路の性状を測定した。また、Gysi(1926)もフェイスボウの顆頭部に描記用の鉛筆を取りつけた装置を考案し、矢状顆路傾斜度の平均が33度であることをつきとめている。しかし、矢状顆路の性状が本格的に明らかになったのは、McCollum(1921)によりパントグラフが開発されてからである。パントグラフを用いると顎関節部に備えられた垂直描記板上に矢状顆路の彎曲が明瞭に描かれ、その測定値は全調節性咬合器に再現できる。矢状顆路を測定する方法には、他にチェックバイト法がある。これは矢状顆路上の2点間を結ぶ線を直線的に再現する方法で、その計測値は、普通、半調節性咬合器に再現される。チェックバイト法で得られるのは矢状顆路傾斜度で、顆路が彎曲しているため実際の生体の顆路傾斜度よりも緩やかになる傾向があり、精度的には機械式または電子式のパントグラフには及ばない。
矢状顆路は調節性咬合器の矢状顆路調節機構によって再現される。全調節性咬合器では、パントグラフに描かれた矢状顆路の彎曲と一致する曲面をもつプラスチック・エミネンシアをハウジング内に適合させ、その表面を削合したり、レジンを添加したりして測定値に一致させるようなシステムがとられている。全調節性咬合器では矢状前方顆路と矢状側方顆路の両者を同一フォッサ内に再現することができる。半調節性咬合器では矢状顆路は直線的なハウジングの上壁の傾斜度を変えることによって再現される。ここで再現されるのは、矢状顆路傾斜度であり、矢状前方顆路傾斜度と矢状側方顆路傾斜度のうち、いずれか一方しか再現できない。上述のように最近の電子的計測データによるとフィッシャー角の平均値はほぼゼロであり、また上下顎歯が対向関係にある中心位から2~3mmの範囲では、正常者の顆路はほとんど直線的である。したがって、矢状前方顆路と矢状側方顆路を区別する必要はなく、また咬合器の矢状顆路は直線的で十分であり、彎曲形状の必要はない、と考えられる。この意味では全調節性咬合器を用いて顆路の彎曲形状を再現する必要はなく、直線的な顆路をもつ半調節性咬合器で十分である、といえるであろう。
従来顆路は患者ごとに固有のものという考え方があり、それにともない固定不変のものという通念が生じていた。顆路をくり返し測定したときのぶれ(Olivaら 1986)や、全運動軸の幅(河野 1968、鈴木 1987、西 1989)など顆路にぶれがあるということを示唆する計測結果が報告されていたが、いずれも顆路のぶれの計測を積極的な目的としたものではなかった。保母、高山(1995)が6自由度の電子的下顎運動計測装置を用いて矢状顆路の往路と帰路を比較計測した結果によると、矢状顆路の往路と帰路は相違し、両者間の幅は咬頭嵌合位から2mm点で、前方運動時に平均0.44mm、側方運動時に平均0.79mmであった。矢状顆路傾斜度で比較すると両者の差は前方運動時に平均11.7度、側方運動時に平均23.0度、往路よりも帰路のほうが傾斜が緩やかになる。
このように顆路の往路よりも帰路が緩やかになるのは、咀嚼筋群のうち往路には開口筋群が、帰路には閉口筋群が作用し、後者の筋力が前者のそれよりもはるかに強いためと考えられる。すなわち偏心運動中には顆頭は下顎窩のなかで弛緩した状態でぶら下がり、求心運動中は緊張した状態で関節円板をはさんで関節結節に押しつけられるため、往路と帰路に相違を生じるのであろう。
矢状前方顆路と矢状前方切歯路の間に相関があるか否かは興味ある課題である。西(1989)によると、正常咬合者の矢状前方顆路傾斜度と矢状切歯路傾斜度との間に統計的に有意な相関は存在しない。両者の角度の差は-20~+40度の間に分布し、平均2.4度で後者のほうがわずかに急な傾向が認められる。
保母、高山(1995)は運動学的解析により、水平基準面に対し矢状顆路傾斜度だけ前傾している平面(P平面)を想定すると、前方運動および側方運動における顆頭間軸の運動範囲はこの平面内に含まれ、側方運動中の側方旋回運動は作業側顆頭の運動学的顆頭中心を通りP平面に垂直に立てた側方旋回軸を回転軸として行なわれることを示している。