人工歯
- 【読み】
- じんこうし
- 【英語】
- Artificial tooth
- 【辞典・辞典種類】
- 新編咬合学事典
- 【詳細】
- ⇒無歯顎の咬合
失なわれた上下顎のすべての歯を総義歯によって補綴するときの上下顎人工歯による咬合。無歯顎の状態では下記のように多くの条件が有歯顎と異なっている。
1)無歯顎者では、歯の植立していた歯槽窩が消失する。このため、上顎の歯槽堤は頬側歯槽突起が著明に吸収し、歯槽弓は有歯顎の歯列弓よりも狭くなる。また下顎の歯槽堤は舌側歯槽突起が著明に吸収し、歯槽弓は有歯顎の歯列弓よりも広くなる。そのため、床の安定と咬合とが不可分の関係にある総義歯では、咬合の対向関係の変化が咬合様式に大きな影響を与える。
2)顎関節にも著明な変化が現われる。顆頭は丸みを増し、その位置が下顎窩内のやや後方へ転位し、関節円板や関節軟骨が延長する傾向がみられる(上條 1973)。関節結節は低くなり、矢状顆路は緩やかで平坦になる。矢状顆路傾斜度は有歯顎者が平均40度前後(Lundeen 1973)であるのに対し、無歯顎者は平均29度(中沢 1939)に減少する。
3)有歯顎者では歯根膜の感覚が咀嚼筋や顎関節の自己受容性の調節機構に鋭敏に反映され、このことが顎反射の習得、下顎位の決定、下顎運動の調節、嚥下や咀嚼などの機能運動に直接関与している。無歯顎者では歯根膜の感覚が欠如し、また口腔粘膜の感覚も障害され、人工的につくられた人工歯や床を介して感覚情報が獲得されるため、そこに生ずる機能は本来の機能とは異なったものとなる。
4)咬合力は有歯顎者では歯根膜により負担、緩圧されるが、無歯顎者では床下粘膜によって代償される。そのため義歯の咬合力は天然歯の1/3程度に減少する。
5)咀嚼能率は約30%に低下しチューイング・サイクルも有歯顎者と比べその経路が複雑になり、前頭面では幅が広くなることが多い。
このようなさまざまな相違点をもつため、有歯顎時の咬合を単に再現するだけでは、義歯床の安定と機能運動の回復を目的とする無歯顎の咬合を得ることはできない。そのため、無歯顎者の咬合は有歯顎者の咬合と区別して考える必要がある。
【歴史】
総義歯の咬合の歴史は、総義歯の誕生以来、いかによく噛め安定の良い義歯をつくるかという普遍的なテーマに集約されている。江戸時代の木製義歯にも咬合面は付与されていたし、18世紀にフランスのPierre Fauchardが製作した総義歯の咬合面にも陶歯が用いられている。これらは、いずれも形態的に天然歯列を模倣したものである。総義歯の咬合をはじめて科学的にとらえ義歯の安定と下顎運動との協調性に注目したのは、アメリカのBonwill(1859)である。Bonwillは側方運動中に作業側の顆頭は回転し、非作業側の顆頭は下顎窩内で水平に前進するという見解を発表した。そして、総義歯が安定するには、側方運動時に人工歯が作業側の2点と非作業側の1点、計3点で接触する必要があると考えた。この理論はBonwillの3点接触理論と呼ばれ、バランスド・オクルージョンの先がけとして、今日でも総義歯の製作に用いられている。
1890年、ドイツのSpeeは多数の頭蓋骨を観察し、下顎の犬歯遠心隅角部と臼歯の頬側咬頭頂および顆頭の前縁を結んだ矢状面投影はひとつの円弧を形成し、その中心は眼窩内涙骨上縁付近にあると考え、これをスピーの彎曲と命名した。そして、下顎の偏心運動はこの彎曲に沿って、振子状に行なわれるため、人工歯はこの運動と調和するように排列する必要があると主張した。スピーの彎曲は、のちにMonsonに受けつがれ、バランスド・オクルージョンの理論の基盤となった。
1896年、アメリカのWalkerはフェイシャル・クリノメータを使って顆路を実測し、側方運動時に非作業側の顆頭が、咬合平面に対して平均35度の角度をもって前下方に運動することをみつけた。そして、このとき作業側の顆頭は回転する他、わずかに後方へ動くことも発見している。そして、義歯が咬合の平衡によって安定するためには、上顎臼歯の舌側咬頭を頬側咬頭より高くし、逆に下顎臼歯の頬側咬頭を舌側咬頭より高くつくる必要のあることに気づいた。
古典的な総義歯咬合論を集大成し、近代咬合学への道を開いた研究者にGysiがいる。Gysiは1901年ごろ、ゴシック・アーチ描記装置を完成し、下顎運動の口外描記法への道を開いた。また同じころ、下顎に取りつける型式のギージー・フェイスボウを開発し、これを使って無歯顎者の矢状顆路を測定した。そして矢状顆路傾斜度は咬合平面に対して平均33度になることをつきとめた。1929年、Gysiは軸学説と咬合小面学説を発表した。そして、幾何学的作図法によって求められる前方、後方および側方の3つの咬合軸を中心とした回転によって、前方運動、後方運動および側方運動が行なわれるとし、その軸の位置、傾斜状態、人工歯咬合面の排列や形態との関係などを追求した。これにより、臼歯の咬頭傾斜は矢状顆路傾斜度と矢状切歯路傾斜度に正比例し、水平側方顆路角には反比例するがあまり影響されないことが明らかになった。この理論は有床義歯学の学理として、その後永く支持されたが、側方顆路が詳しく研究されるようになった現在では、かつてのように広く信じられていない。Gysiは軸学説や咬合小面学説に基づき、トゥルーバイトの33度陶歯と20度陶歯を開発している。
Gysi以後、顆路を重視した解剖的咬合器が総義歯製作に盛んに使用されるようになった。Gysiの理論や臨床術式は沖野や長尾らによりわが国へ導入され、以来わが国の総義歯界はGysi的色彩を濃くした。
同じころ、アメリカではMonsonの咬合論が登場している。Monson(1920)は、形態学的な観点からスピーの彎曲を重視し、スピーの彎曲をすべての下顎運動の範囲まで拡大すると、ひとつの球面が形成され、その半径は4inch(約10cmでボンウィル三角の一辺)となり、下顎の前後、側方運動はこの球面に沿って行なわれると主張した。この説は球面説と呼ばれ、Monsonはこれを実践するためにモンソン咬合器を開発している。モンソンの球面説は科学性に乏しいため、現在では否定されているが、人工歯を排列する際に前後的調節彎曲の程度を知る目安として一部において利用されている。
1926年、アメリカのHanauは総義歯の咬合平衡に関する法則を発表した。この法則は顆路傾斜、咬合平面の傾斜、切歯路の傾斜、咬頭の高さ、調節彎曲の程度を5要素として、これらが一定の法則のもとに関連しあうとき、総義歯は調和のとれた機能を営むとするもので、その理論はハノーの咬合5辺形(Hanau-Quint)によって図式化されている。各要素の相関関係を定量的にとらえることが困難なため、この理論はさほど実用的な価値をもたなかったが、総義歯の平衡を得るために、これらの要素が重要な役割りを果たし、互いに関連しているという事実を表現したことは高く評価されている。これに先立ち1923年にHanauは、顎関節や義歯の上下顎粘膜の被圧縮性の存在を取りあげ、これを総義歯の製作時に考慮する必要があるとした。また、L=H/8+12(Lは側方顆路角、Hは矢状顆路傾斜度)という、有名な公式を発表している。この公式は、Walker、Monson、Gysiなどの機械的な咬合論とは別の方向を示すものとして注目された。
【咬合様式】
総義歯は、床が安定しないと正しい咬合が得られず、また正しい咬合が得られないと床は安定しない。床の安定を得るために、今日までにさまざまな咬合様式が紹介されてきたが、現在ではバランスド・オクルージョンが総義歯に与える理想咬合として広く認められている。バランスド・オクルージョンにはバイラテラル・バランスド・オクルージョン(両側性平衡咬合)とユニラテラル・バランスド・オクルージョン(片側性平衡咬合)とがある。バイラテラル・バランスド・オクルージョンは側方運動時、作業側と非作業のすべての上下顎人工歯が均等に接触滑走する咬合をいう。フル・バランスド・オクルージョンとも呼ばれ、もっとも早期に総義歯の理想咬合として確立された。義歯床をよく安定させ、咀嚼能率が優れているため、総義歯に不可欠の咬合様式と考えられている。しかし、咬合面形態を下顎運動と精密に一致させることがきわめて困難なため、その製作には高度の技術を要する。
ユニラテラル・バランスド・オクルージョンは側方運動時、作業側のすべての上下顎人工歯が接触する咬合をいう。グループ・ファンクションド・オクルージョンの思想の流れを汲む咬合様式で、咀嚼時における機能を重視して、考え出されたものである。Hardy(1942、51)は、臼歯部に無咬頭歯を排列して直線的な咬合平面をつくり、側方運動時に作業側臼歯の頬側部だけを接触させる一方、前歯部の被蓋を最小にし、前方運動時の前歯の接触を少なくし、上顎義歯の転覆を防ぐことを提唱した。そして、このような咬合を与えると咬合力は歯槽頂上に加わり、機能時に義歯が安定すると説明している。矢崎(1958)は“バイラテラル・バランスド・オクルージョンでは、食物を一側に介在させると他側は離開し、咀嚼時の義歯の安定にまったく役立たない”と述べ、咬合圧線、咀嚼圧線、歯槽頂間線の3つの法則を重視した片側性平衡咬合を提唱している。
総義歯の咬合様式には、他に最近注目を浴びているPound(1973)のリンガライズド・オクルージョンがある。この咬合では、上下顎臼歯部人工歯は1歯対1歯の関係で嵌合し、上顎臼歯の舌側咬頭は下顎臼歯の中央窩に噛みこみ、片側について各小臼歯に1点ずつ、第1大臼歯部で2点、第2大臼歯部で1点の計5点が接触する。上顎には33度の咬頭傾斜をもつ人工歯を排列し、下顎には20度の咬頭傾斜をもつ人工歯を用いるため、単位面積あたりの咬合圧が増大され、従来の面と面との接触による咬合よりも食品の切截能率が向上する。人工歯の排列は下顎犬歯の近心隅角と臼後結節とを結んだ線(cuspid-retromolar pad guide line)を基準として行なわれる。下顎臼歯はこの線の頬側へ排列し上顎臼歯は歯槽頂間線を考慮して下顎臼歯と嵌合するよう排列する。その結果、咬合圧は舌側へ誘導されることになる。偏心運動時には、その開始直後のチューイング・サイクルの範囲内でバランスド・オクルージョンとなるが、それ以外のときには臼歯は一切接触しない。
【下顎位】
無歯顎者では基準となる歯をすべて喪失しているため、下顎位をみつけ出すことは容易ではない。これまでに種々の下顎位の設定法が開発されているが、いまだ決定的な方法はなく、いくつかの方法が併用されているのが現状である。具体的には垂直的な下顎位と水平的な下顎位とを決定することが必要である。垂直的な下顎位の決定には、以下の方法が用いられる。
1)安静位を利用する方法
無歯顎者の垂直顎間距離を求める代表的な方法のひとつで、Niswanger(1934)、Thompson(1946)らによって提唱された。下顎が安静位をとるとき、有歯顎者では上下顎歯列の間にほぼ一定の間隙が現われる。この間隙は安静空隙と呼ばれ、平均2~3mmで一定している。安静位は、有歯時、無歯時を通して、その個人にとって比較的変化の少ない安定した下顎位と考えられるから、無歯顎者の垂直顎間距離はそのヒトの安静位から垂直的に2~3mm短縮した位置に相当することになる。そのため、患者に安静位をとらせ、このときの鼻オトガイ間距離を測定し、その値から2~3mm差し引くと、その患者の垂直顎間距離が求められる。操作が簡便なため臨床的に広く用いられているが、安静空隙には個人差があり、また年齢によって安静位が変化する(河辺 1972)ため、どれだけの量を安静空隙として用いればよいか疑問が残されている(津留 1972)。
2)咬合力を利用する方法
Boos(1940)はバイメータを用いて咬合力と咬合高径との関係を測定し、最大咬合力は咬頭嵌合位で発揮され、このとき咀嚼筋の能率が最大に達することを知った。そして、この事実を前提として、無歯顎者の垂直顎間距離を再現できると考え、咬合力を利用する方法を提唱した。しかし、Boucher(1964)は最大咬合力を示す顎間距離が必ずしも咀嚼筋のもっとも効率よく活動している状態とならないことを筋電図によって調べ、この方法に反論している。咬合力を利用する方法は特別な装置を必要とするため今日ではあまり用いられていない。
3)発音法
あるひとつの単語を発音するときには、すべての口腔の器官が一定の位置関係をとって調音運動が営まれる。下顎の位置も調音運動に直接関与するため、ある特定の音を利用して上下顎の位置関係を定めることができる。Silverman(1953)は(S)音を発音するとき下顎は調音運動中、咬頭嵌合位にもっとも近づくことをみつけ、このとき現われる上下顎歯列間の間隙をclosest speaking spaceと呼んだ。そして、この間隙は平均1~1.5mmで安定しており、上下顎咬合床間の距離がS発音時に1~1.5mmになるよう垂直顎間距離を決定すれば、適正な上下顎の位置関係を再現できると述べている。Pound(1966)は(S)音を発音するとき、下顎前歯の切端はもっとも上方で、もっとも前方に位置し、上顎前歯切端との間に1mm程度の垂直的および水平的間隙が現われるとして、このときの下顎位をエス‐ポジションと名づけている。そして、エス‐ポジションをとらせたときの下顎位をスピーキング・ワックスで記録し、これを指標にして、総義歯の顎間距離の決定および前歯排列の基準としている。発音法はその測定に特別な道具を必要とせず、また口腔の安定した機能を利用しているため、きわめて有効な方法といえる。発音法に用いられる音は上下顎前歯の被蓋関係によって決定されることが多いため、この方法はロウ義歯の試適時に用いられることが多い。
4)嚥下法
有歯顎者では、嚥下時、上下顎歯列は咬頭嵌合位付近で接触し、下顎は安定した位置をとる。これを利用として、無歯顎者の垂直顎間距離を測定する方法がShanahan(1956)らによって提唱された。やや低めの下顎咬合堤の上にソフト・ワックスをおき、患者に嚥下運動を行なわせ、ソフト・ワックスの面に総義歯に与えるべき機能的な顎間距離を記録する。この方法は生理的な機能運動を利用して顎間距離を決定できるため、きわめて合理的な方法であるが、無歯顎者では上下顎の歯列が接触しないのを補うため、頬筋が異常に収縮して、顎間距離が正常値より小さい値を示すことがある(津留 1972)。また、使用するワックスが温度に左右されやすいことや、ワックスの厚さによって顎間距離が変動するため、この方法は、顎間距離決定の決め手にはならないと指摘されている(河辺 1973)。また、無歯顎者では舌の使い方次第で、垂直顎間距離を変化させて嚥下できるという欠点もあげられている(鵜養 1963)。
5)ウィルス法
下顎が安静位にあるとき、瞳孔口裂間距離と鼻オトガイ間距離が等しくなるとして、瞳孔口裂間距離を測定して適正な垂直顎間距離の目安とする方法である。
6)ブルーノ法
手掌の幅径と鼻オトガイ間距離を等しいとみなし、これを垂直顎間距離の測定の参考とする方法である。
7)坪根法
坪根式バイト・ゲージを用い、瞳孔口裂間距離を測定し、咬頭嵌合時の鼻オトガイ間距離がその測定値と一致するよう垂直顎間距離を調節する方法である。
8)山田法
左右の瞳孔間距離、または頬骨弓幅を求め、これを男女別の顔面高径算定基準法に適用し、顔貌と調和のとれた垂直顎間距離を算出する方法である。
水平的な下顎位の決定は垂直的な下顎位を決定したのちに行なわれる。以下の方法があり、いずれも咬頭嵌合位を決定するため用いられる。
1)タッピング法
患者に連続的にリズミカルな習慣的開閉運動をさせると、咬合点がもっとも生理的な位置に集中してくる性質を利用した方法である。Brill(1959)は、咬合位を決定する歯が喪失したような症例では、筋がその決定の重要なよりどころとなると考え、筋がリラックスした状態で営まれる習慣的閉口運動を行なわせたときに求められる下顎位が水平的顎位の決定に役立つと示唆している。そして、習慣的閉口路の終末はタッピングによって得られる下顎の位置と同じになることから、この方法の妥当性を説明している。丸山(1973)は、有歯顎者に咬頭嵌合位から3mm程度閉口した下顎位からタッピングを行なわせたところ、咬合点(叩点)の分布範囲が狭くなり、運動の規則性も高いことから、この方法の有効性を認めている。Celenza(1973)も下顎を誘導しながら患者にタッピングを行なわせると、きわめて再現性の高い咬合位が得られると報告している。林(1972)は、タッピング法とは患者のオトガイ部に術者の指をおき、下顎が後退するように誘導しながら患者に自発的開口運動をさせ、カチカチと軽く噛ませる方法であると述べ、無歯顎者によくみられる下顎の前方への推進現象を抑制しながら、筋のリラックスした状態で咬合採得を行なうように指示している。
2)ゴシック・アーチ描記法
下顎運動を水平面で観察すると、その境界運動路は特殊な矢印形の経路を示し、これはGysiによってゴシック・アーチと名づけられた。その頂点は普通、下顎の最後方位と一致するため、水平的な下顎位の決定に用いられている。口内描記法と口外描記法とがあり、口内描記法では、上顎咬合床の口蓋中央部に取りつけられた描記板と、下顎咬合床の中央に固定された描記針とによりゴシック・アーチが描かれる。この方法はWarnekros(1892)によってはじめて用いられ、その後、Hesse(1897)、Gysi(1901)らによって改良された。近年は水平的下顎位と垂直的下顎位を同時に決定できるBarnea法(1968)も開発されている。口内法ゴシック・アーチ・トレーサは装置が小型で軽量であるため、咬合床の安定もよく、しかも計測される運動路が、下顎の実際の運動量と同じ大きさになるなどの利点をもっている。反面、描かれる運動路が小さく、また、描記針が太いため、描かれるラインが太くなり、ゴシック・アーチの頂点を判別しにくいといった欠点もある。
口外描記法では、上顎咬合堤に取りつけた口外描記法によって下顎の咬合堤に取りつけた口外描記板上に、ゴシック・アーチを描かせる。近年は、口外ゴシック・アーチ・トレーサに圧力を均等に分配して描記させる装置も登場している(ネイ社ハイドロ・セントリック)。口外描記法によって描かれるラインは実際の下顎運動量よりも拡大されたものとなり、また描記板が口腔外におかれているため直視下で操作でき、アペックスを確認しやすい利点がある。反面、描記操作中に上下顎の咬合床が不安定になりやすく、ゴシック・アーチを円滑に記録できないといった欠点もある。ゴシック・アーチ描記法は、ゴシック・アーチの頂点を水平的下顎位の基準として用いているが、この頂点の意義に関しては種々の意見がある。河辺(1972)は、無歯顎者に下顎を後退させることなく、自然にゴシック・アーチを描かせた場合、その頂点の位置は有歯顎時の咬頭嵌合位に等しく、さらに下顎を後退させると0.5~1.0mm後方へ偏位したゴシック・アーチが描かれると述べている。一方、Celenzaは有歯顎者では術者が下顎を後方へ誘導した場合と、誘導せずに患者に自然に運動させた場合とでは、描かれるゴシック・アーチの頂点にほとんど変化がみられないと記述している。ゴシック・アーチは、また咬合の高さによっても変化を受け、咬合の高さが適正な場合はゴシック・アーチの頂点は明瞭になるといわれる(鵜養1961)。
3)嚥下法
嚥下運動時に下顎は中心位に近い位置にあるとみなし、これを水平的下顎位の決定に用いる方法。垂直的下顎位の決定にも用いられる。
4)ワルクホッフ球法
舌を後上方へ挙上させると、オトガイ舌筋の作用により舌顎は後方へ引きつけられる。ワルクホッフ球法はこの現象を利用した方法で、Walkhoffによって提唱された上顎咬合床の後縁口蓋正中部に大豆大のワックスの球(ワルクホッフ口蓋球)をつけ、舌尖部でこれをなめさせながら、患者に閉口運動をさせると下顎が後退するので、これを基準として下顎位を決定する。しかし、急激に有歯顎から無歯顎に変わった患者の場合は、この方法を用いると、下顎が後方へ誘導されすぎて失敗することがある(加藤1972)。ワルクホッフ法は、あくまで適正な顎位を得るための補助手段であり、この方法単独では正確な咬合採得は行なえない。
その他の咬合採得法として、マイオモニタを用いる電気的方法、筋電図法、頭部X線規格写真を用いる方法などが紹介されている。
【人工歯】
人工歯は咬合の再現に直接関与するため、咬合の機能に対して大きな役割りを果たしている。人工歯の起源はB.C.2000年代の古代エジプトにさかのぼるといわれ(沖野1964)、その材料には石片、獣骨、木片などが用いられた。18世紀に入り、フランスの陶工Guerhardらによって人工歯に陶材が用いられ、それ以降、陶歯が人工歯の主流を占めるようになった。日本では、1884年に宿沢がはじめて陶歯を製作したといわれる。現在では、陶歯、アクリリック・レジン歯、ポリウレタン・レジン歯、金属歯などが用いられている。
人工歯の具備条件には、1)強度をもつこと、2)硬度があること、3)耐磨耗性に優れていること、4)審美性に優れていること、5)吸水性がないこと、6)毒性がないこと、などがあげられている。
陶歯は耐磨耗性、色調、光沢、透明度、表面の滑沢性が優れているが、もろくて破折しやすく、形態の修正がやや困難で、またレジン床との結合が悪いことなどが欠点としてあげられている。レジン歯は、陶歯に比べて、製作が簡単で、審美性にも優れ、レジン床との結合もよいが、耐磨耗性に乏しく、また吸水性があるため変色しやすいといった欠点をもっている。金属歯は、形態を自由につくることができ、強度や硬度が優れているが、審美性にかけるため、前歯に使用することができず、また咬合調整の操作がやや困難であるといった欠点をもっている。
人工歯は、前歯用と臼歯用に分けられる。前歯用人工歯は、審美性と発音機能の回復を主とし、臼歯用人工歯は咀嚼機能の回復と義歯の安定を主として製作されている。前歯用人工歯は天然歯の形態、大きさ、色調などを基準にして選択される。有歯時の記録がない場合は、患者の顔貌、性別、年齢、皮膚、口唇の色などが参考にされる。Williams(1914)は人工歯の形態を円形、方形、尖形およびそれらの中間形に分け、Hall(1889)は天然歯の前歯の形態を、square、tapering、ovoidの3型に分類している。日本人の顔の輪郭は、方形がもっとも多く、ついで尖形、卵円形、その他の順になっている。前歯部人工歯の歯冠の近遠心的幅径と顔面の幅との比率はしばしば問題にされる。通常、中切歯の幅は顔面の幅の1/16といわれている。日本人男子の上顎6前歯の平均歯冠幅径は、中切歯9mm、側切歯7.5mm、犬歯8.5mmで、女性はこれよりやや小さい。上顎6前歯の幅径の総和は平均50mmで、下顎6前歯のそれは上顎6前歯の総和の約4/5である(三谷1973)。色調は、色相、明度、彩度によって表されるが、修正マンセル表色系によれば、歯冠部の色調は平均1.0Y~1.5Y、明度は中切歯、側切歯、犬歯の順に低くなり、彩度は犬歯が高く、中切歯と側切歯はほとんど同程度といわれる(林1973)。また、現在、日本で発表されている有床義歯用前歯は約10種で、外国製のものを含めると10数種にのぼる。
臼歯用人工歯はその咬合面形態により、解剖学的人工歯と非解剖学的人工歯に分けられる。解剖学的人工歯は、天然歯の咬合面形態を模倣したもので、代表的なものにGysiのトゥルーバイト33度陶歯や20度陶歯がある(20度陶歯を機能的人工歯、または準解剖学的人工歯として分けることもある)。使用頻度が高く、現在、総義歯に用いられているほとんどの人工歯がこの範疇に入る。天然歯に形態が近いため、審美的にも優れ、平均的な下顎運動要素をもつ場合にもっとも効率よく機能する。
非解剖学的人工歯は、天然歯の形態にとらわれることなく、まったく機能的な効果だけを考慮してつくられた人工歯をいい、無咬頭歯、SosinのBladed metal teeth、HardyのMetal-insert teeth、LevinのLingual bladed teethなどの金属歯がこれに属する。咬頭傾斜をもたないため、機能時に側方圧を生じることが少ない。また、排列が容易で、交叉咬合やその他の不正咬合の症例にも用いやすいなどの利点がある。
解剖学的人工歯と非解剖学的人工歯の咀嚼能率を比較した報告は多い。Thompson(1937)、Payne(1951)、Trapozzano(1952)らは解剖学的人工歯のほうが非解剖学的人工歯よりも咀嚼能率が優れていると報告している。また増田(1974)は30度、20度、0度の咬頭傾斜をもつ人工歯の咀嚼能率を調べ、咬頭傾斜の高い順に咀嚼能率が優れていたと報告している。一方、津留(1961)、Manly(1951)らは、非解剖学的人工歯のほうが咀嚼能率が優れていると報告し反対の見解をとっている。咀嚼能率は食品の性状、顎堤の状態、義歯床の安定性などさまざまな条件によって変化する(覚道 1976、78)。そのため、咬合面形態のあり方だけから、これを判定するのは困難と考えられる。
臼歯部人工歯の大きさは近遠心径と歯冠幅径とによって決定される。近遠心径は上顎では犬歯遠心部より上顎結節前縁までの距離を、下顎では犬歯遠心部より臼後結節前縁(歯槽堤の傾斜面は含まない)までの距離を、それぞれ基準として決定する(平沼 1973)。頬舌的幅径はできるだけ幅の狭いものを選択する。これは咬合力を小さくして歯周組織の外傷を防止し、さらに、咬合力を歯槽頂間線に一致させて義歯の安定を高めるためである。また臼歯部人工歯の大きさは歯槽弓の大きさと形態も参考にして選択する必要がある。一般に、歯槽弓が方形のものは義歯がもっともよく安定し、円形がこれにつぎ、尖形はもっとも劣るといわれる(川野 1973)。この他、上下顎歯槽堤の対向関係や顎間関係も重要である。
臼歯部人工歯を選択するときは咬頭傾斜と義歯の推進現象との関係を考慮すべきである。非解剖学的人工歯は咬合面が平坦なため、咬合力はすべて垂直に義歯床に伝達されるが、解剖学的人工歯は咬頭傾斜をもつため咬合力は水平に義歯床に伝達されやすく、義歯の推進現象を起こすことが多い。Gysiは咀嚼時には食物が咬合面に介在するため、咬合力と逆の方向へ摩擦力が生じると考えた。そして、咬頭傾斜が20度のときには義歯に加わる側方圧と摩擦力は等しくなり、咬合力は垂直に働いて義歯を安定させると述べている。臼歯部人工歯の咬頭傾斜と顆路傾斜の関係も重要である。顆路傾斜が急なときは咬頭傾斜の急な人工歯を選択し、顆路傾斜が緩やかなときは咬頭傾斜も緩やかなものを選択するとよい。Gysiは矢状顆路傾斜度と矢状切歯路傾斜度および人工歯の咬頭傾斜が正比例すると説明している。
人工歯の排列は与える咬合様式の種類によって異なるが、機能時の咬合平衡を考慮した排列法が一般的である。咬合圧は無歯顎者では床下粘膜が負担し、義歯は一魂として咬合に関与する。また咬合圧下で床下粘膜が示す抵抗は部位によりまちまちである。したがって、咬合平衡によって義歯の安定を図る必要がある。咬合平衡を得るためには調節彎曲と歯槽頂間線法則とを考慮しなければならない。調節彎曲は人工歯列に与えられる彎曲で、天然歯列の咬合彎曲あるいは歯列彎曲に対応する用語である。前後的調節彎曲と側方的調節彎曲とがある。前方運動時、顆頭は前下方へ進み、上下顎臼歯部は離開し、そこに後方へ開いた三角形の空隙を生じる。これは矢状クリステンゼン現象と呼ばれ、義歯の安定上、好ましくない。そこで、これを防止するため、前歯切端と臼歯咬頭頂を連ねた線の矢状面投影が下方へ凸な円弧を描くよう人工歯を排列する。これが前後的調節彎曲で、顆路傾斜度が強くなれば彎曲の程度を増し、人工歯の咬頭傾斜が強くなれば彎曲の程度を減じる。バランスド・オクルージョンでは、切端咬合時に前歯部と両側の最後方臼歯部との3点で接触する必要があるとされ、さらに各人工歯の前方咬合局面が互いに接触し、咬頭間に菱形の空隙を生じることが咀嚼能率の面からは理想とされている。側方運動時、非作業側の顆頭は前下内方へ進み、同側の上下顎臼歯部は離開し、そこに外方へ開いた三角形の空隙を生じる。これは側方クリステンゼン現象と呼ばれ、矢状クリステンゼン現象と同様、義歯の安定上、好ましくない。そこで、これを防止するため、臼歯咬頭頂を連ねた線の前頭面投影が下方へ凸な円弧を描くよう人工歯を排列する。これが側方調節彎曲で、顆路傾斜度が強くなれば彎曲の程度を増し、人工歯の咬頭傾斜が強くなれば彎曲の程度を減じる。バランスド・オクルージョンは側方運動時に、作業側では下顎臼歯頬側咬頭の頬側斜面と上顎臼歯咬頭の舌側斜面とが、また非作業側では下顎臼歯頬側咬頭の内斜面と上顎臼歯舌側咬頭の外斜面とが接触する必要があるといわれ、義歯の両側性平衡に役立つ。
咀嚼時、上下顎人工歯間に食片を介在して咬合すると、咬合面は接触しないため、咀嚼部位を中心とした転覆力が床に作用し、義歯の安定が損なわれる。これを防止するため、床の一側が他側の助けを借りないで、片側だけで独立して咬合平衡が得られることが望まれている。このような咬合平衡は片側性平衡と呼ばれ、咬合力の方向が上下顎の顎堤頂を結んだ歯槽頂間線に一致するよう人工歯を排列することによって得られる。これは歯槽頂間線法則と呼ばれ、普通、小臼歯部では上顎小臼歯の中央部と下顎小臼歯の頬側咬頭頂を、大臼歯部では上顎大臼歯舌側咬頭の外斜面中央部と下顎大臼歯頬側咬頭の内斜面中央部を歯槽頂間線が通るよう人工歯を排列する。しかし、歯槽頂間線と咬合平面とがなす角度が80度よりも小さい場合にはこの法則は適応されず、交叉咬合排列を行ない、床の転覆を防止する必要がある。
⇒無咬頭人工歯
咬頭斜面のない平坦な咬合面形態を有する人工歯。総義歯に用いられる。GPT-6では、モノプレーンmonoplane(形容詞)を“左右的medial-laterallyおよび前後的anterior-posteriorlyに平坦な義歯排列のための特殊平面”と定義し、さらに無咬頭咬合monoplane occlusionを“後方歯posterior teethが、いかなる咬頭隆起cuspal heightをも欠く咀嚼面をもつ咬合排列”と定義している。関連用語としてリニア・オクルージョンlinear occlusionがあり、“義歯の咬合排列の一形態で、水平面に投影してみた場合、下顎の後方歯の咀嚼面が細長い綿状の咬合形態を有するもの、通常無咬頭歯と対合する”と定義されている。
以下小林(小林:デンタル・ダイヤモンド10:274-281、1985)の記述に基づいて要約することとする。
欧米において使用される人工歯の約半分は非解剖的人工歯、とくに無咬頭人工歯であるが、わが国では一般に総義歯にはバランスド・オクルージョンの咬合様式がとられ、解剖的(有咬頭)人工歯が使用されている。これはGysi理論の影響や、平坦な無咬頭での咬頭接触では咀嚼能率が悪いのではないかという懸念などに起因していると考えられる。しかし有咬頭(解剖的)人工歯では、咬頭斜面が存在するため咀嚼時や空口の嚥下時に側方咬合圧を生じ、義歯床が移動や動揺をきたして顎堤の呼吸を促進する。これがくり返されると、下顎位が変化して顎関節や咀嚼筋にも影響を及ぼすおそれがある。これに対し咬頭斜面のない平坦な無咬頭人工歯を使用すれば、咬頭力を顎堤に垂直に作用できるというのが、無咬頭人工歯の適用についての基本的な考え方である。
【適応症】
無咬頭人工歯の適応症は無歯顎症例のすべてであり禁忌症はないが、とくに効果が得られる場合として以下の適応症があげられている。
1)良好な顎堤を保存したい場合。
2)顎堤の吸収が顕著で、できる限りその状態を維持したい場合。
3)下顎義歯の安定を求める場合。
4)上下顎堤の対向関係が平行か、またはそれに近い場合。
5)臼歯がクロスバイトの場合。
6)ゴシック・アーチ描記によりアペックスが不明確か、またはタッピング・ポイントのバラツキが大きい場合。
7)顎関係がII級の場合。
8)ブラキシズムの習癖が強い場合。
9)咀嚼系に機能障害がある場合。
【排列様式】
無咬頭人工歯のおもな排列様式を列挙すると、次の通りである。
1)Sears法
これは、無咬頭人工歯の適用を主張する立場では代表的な排列法である。平坦な咬合平面を付与するとクリステンゼン現象が発現し、前方または側方運動において両側または非作業側の後方で臼歯離開するが、両側の最後臼歯の歯軸を傾斜させ、その咬合面を通法の矢状および側方の咬合彎曲に沿うように傾斜させる。この様式は、前歯と両側最後臼歯(バランシング・ランプ)の3点でバランスをとるので、スリーポイントバランスとも呼ばれている。通常、バランシング・ランプは上顎歯を排列せずに下顎最後臼歯または義歯床で付与する。
2)Hardy法
これは、下顎堤が左右非対称性でSears法の適用が難しい場合、下顎堤が極度に吸収している場合、あるいは咀嚼系機能障害症例に適している。臼歯をすべて平坦に排列する咬合様式である。
3)Jones法
これはもっとも臨床的な排列法で、日常臨床でしばしばみうけられる下顎堤の後方部が斜面を呈し、下顎義歯が前方への推進現象を起こしやすい症例に適用される。Hardy法と同様に下顎歯切縁、尖頭、臼歯咬合面を咬合平面に一致させて平坦にするノンバランスド・オクルージョンであるが、下顎後方の斜面部には咬合接触を与えず、この部の上顎臼歯は咬合平面より約2mm挙上して排列し、舌や頬粘膜に対する“場ふさぎ”の役割りをさせる。
上述のように、無咬頭人工歯は広く無歯顎症例に適応症するが、咬合接触面が平坦となるので、成功させるには咬合採得を的確に行ない、かつ入念に削合調整することが肝要とされている。