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切歯指導

【読み】
せっししどう
【英語】
Incisal guidance
【辞典・辞典種類】
新編咬合学事典
【詳細】
⇒前歯誘導 
偏心運動中に、上顎前歯口蓋面と下顎前歯切端が接触することにより発生する下顎の誘導作用。顆路誘導に対して用いられる用語。アンテリア・ガイダンスとも呼ばれる。GPT-6では、前歯誘導を天然歯、咬合器および捕綴物の場合に分けてそれぞれ、1)生体の上下顎歯接触滑走時の下顎運動に対する前歯接触面の作用、2)咬合器の運動に対する切歯指導桿と切歯指導板の接触面の作用、3)生体のすべての偏心運動中に後方臼歯の接触を防ぐようにつくられた前歯捕綴物”と定義している。
【咬合様式との関連】
下顎の偏心運動中の咬合力によって発生する水平圧は、天然臼歯に非生理的なストレス(応力)を加えるため有害視され、これから臼歯を守るために古くからいろいろな咬合様式が工夫され、バランスド・オクルージョン、グループ・ファンクション、ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンが誕生した。
1)バランスド・オクルージョン
バランスド・オクルージョンは、総義歯のために発案された咬合様式で、偏心運動中にすべての上下顎歯を常時接触滑走させて、咬合力をなるべく多くの歯に分配することを意図している。矢状面内においてバランスド・オクルージョンをつくり出すには、咬合器の切歯路を顆路と平行に設定し、補綴物の咬頭傾斜を両者に平行に形成すれば実現できる。そのため前方運動のような2次元的な運動において、バランスド・オクルージョンを付与するのは比較的容易であった。しかし3次元的な運動である側方運動において、バランスド・オクルージョンを付与するのは困難である。下顎は三脚にたとえられるが、その位置は本来下顎三角の3頂点である左右の顆頭中心と切歯点の3点によって定まるものである。しかしバランスド・オクルージョンでは、2つの顆頭中心の他に切歯点に代わって左右両側歯列の咬合接触が必要になり、計4つの制約条件を包蔵することになる。これは下顎を机にたとえると、3本足の机はすぐ床の上に安定するが、4本足の机は足先を切りそらえないと安定しないことに相当する。しかもこの場合には左右両側にある2本の足は咬頭の数に相当する指をもっている。バランスド・オクルージョンを付与するためにはそれぞれの足を精密に切りそろえなければならない。したがってその実現はきわめて困難で、無理に付与しようとすると咬合面の頬舌径が異常に広くなったり、あるいは咬頭が極端に高くなったりし、そのような補綴物を口腔内に装着すると為害作用を生じることが認識されている。
2)グループ・ファンクション
Schuyler(1959)の提唱したグループ・ファンクションド・オクルージョンは、犬歯を含む作業側の全歯に咬合力を分散させることを意図したもので、天然歯列にもっとも広く存在する咬合様式であるとされてきた。しかし最近の研究により、天然歯列におけるグループ・ファンクションの発現率は8%にすぎないことが判明した(保母、高山 1993)。Schuylerはこの咬合様式により側方運動中に作業側の全歯を接触滑走させ非作業側の歯を離開させるように提唱しているが、これは机のたとえでいうと、3本足の机に相当する。しかしこの場合、前方の足は1本のようにみえるが、この1本の足が作業側の歯の数に相当する指をもっている。片側だけとはいえ天然歯列でこれらの指がすべて整然とそろっていることは稀であろう。このように考えると天然歯列で作業側の全歯が接触滑走する例が8%しか存在しないのは当然であることがわかる。そのためこの咬合を補綴物に付与するのは実際には困難である。
最近グループ・ファンクション・オクルージョンの定義が、側方運動中に作業側の(犬歯を含む)上下顎2歯以上が同時接触する関係にあり、それらの歯がグループとして咬合力を分散させる咬合様式、と変更された(GPT-5 1987)。そして用語もグループ・ファンクションに変更された。この定義によると作業側の歯の大半は臼歯離開してもさしつかえないことになる。一方非作業側のクロス・アーチ・バランスを禁忌とするSchuylerの指摘は現在でも有効である。したがって新しいグループ・ファンクションの定義は、作業側臼歯が接触滑走する状態というよりは、側方運動中に作業側の歯がわずかに接触するだけで、ほとんどの歯が離開する状態ということになり、以下に述べるミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの定義に近づいた。
3)ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョン
D’Amico(1958)は、原始人やプレホワイト・インディアンの頭蓋骨について広範な人類学的調査を行なった。彼らの歯列には極端な咬耗と切端咬合がみられるのに対し、大きな犬歯をもつ類人猿では偏心運動中に上下顎の臼歯が離開するため、臼歯の咬頭は健常な状態に維持されていることを観察した。そして咬耗による咬合の破壊を予防するために自然の与えた適応形態が、犬歯誘導(カスピッド・ライズcuspid rise)と臼歯離開であるという学説を提唱した。D’Amicoは、前方運動と側方運動の両者を犬歯により誘導させることを主張したが、天然歯列では前方運動を犬歯が誘導することはないので、時を経ずして犬歯誘導の適用は側方運動に限定され、呼称もcuspid riseからcuspid guidanceまたはcanine guidanceへと変更された。
犬歯誘導では側方運動中に作業側の犬歯が下顎運動をガイドし作業側と非作業側の全臼歯を離開させる。その結果、下顎は2つの顆頭と作業側の犬歯からなる3本の足によって誘導されることになり、補綴作業もきわめて容易になった。こうしてD’Amicoによって天然歯列における犬歯誘導と臼歯離開の意義が指摘され、それによって生じる臼歯咬頭の保護機能が注目されるようになった。
ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンは、グループ・ファンクションとほぼ時を同じくしてStallardとStuart(1963)により提唱された咬合様式で、咬頭嵌合位では臼歯が前歯の過度の接触を防止し、かつ下顎のすべての偏心運動中に前歯が臼歯を離開させる咬合様式、と定義されている(GPT-6)。また臼歯離開は、下顎の偏心運動中に対向する下顎臼歯咬頭が接触滑走せずに離開すること、と定義されている(GPT-6)。具体的には、偏心運動中に上顎前歯口蓋面と下顎前歯切端が接触することによって臼歯離開を発現させるような咬合様式をいう。これは前歯誘導の作用効果に他ならない。そして犬歯誘導は、ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの一形態で、犬歯の垂直的ならびに水平的被蓋が下顎の偏心運動中に臼歯を離開させる咬合様式、と定義されている(GPT-6)。具体的には、側方運動中に上顎犬歯の尖頭(および下顎第1小臼歯の頬側咬頭の近心斜面)が接触滑走して臼歯離開を発現させることをいい、これは前歯誘導の一形態で、犬歯誘導の作用効果に他ならない。こうして臼歯離開の概念は歯科医学に定着し、その発現に前歯誘導が関連することが認識されてきた。しかし前歯誘導により、いかにして臼歯離開を発現させるかについての具体的な方法は提示されていない。ナソロジーをはじめとする咬合学の未解決の課題は、どのようにして前歯誘導を制御し、臼歯離開を付与するかということに集約できるであろう。
従来とくに有歯顎の補綴で、咬合器の前歯誘導の調節は顆路の決定後に付随的に行なわれ、その意義も、上下顎模型の垂直顎間距離を保つことにより咬合器を安定させ、咬合器に偏心運動をさせたときに石膏模型が破損するのを防止するなどの、きわめて消極的な意味しかもっていなかった。これは従来の咬合学において前歯誘導が臼歯離開に及ぼす役割りについて、実証科学的に解明する手法をもたなかったため、臨床の場で具体的に“ではどうするか”という答えを導けなかったためと考えられる。この点に関しては、ナソロジーの創設者の1人であるStuartが、1982年に没する直前に編者の1人(保母)に対し、“アンテリア・ガイダンス(前歯誘導)はわからない”という率直な感想private communicationをもらしていることからも、うかがい知ることができる。
【前歯誘導による顆路の制御】
下顎運動は下顎三角の運動で代表される。下顎三角の前方頂点が切歯点となる。前歯誘導は、上下顎歯の接触滑走条件下で下顎が偏心運動する際に切歯点の描く運動経路(切歯路)により定量的に表現される。天然歯では、誘導の主役は中切歯(前方運動)や犬歯(側方運動)だけとは限らず、場合によって側切歯や小臼歯、稀には大臼歯が誘導を司どるが、いずれの場合でも下顎三角の前方頂点である切歯点の運動経路、すなわち切歯路より代表されることができる。いい変えると、切歯路は前歯誘導のコンセプトを定量化したものである。従来、顆路は個体ごとに固有で、不変のものと考えられてきた。そして前歯誘導(切歯路)は下顎運動の前方決定要素として顆路誘導(顆路)の次に重視されてきた。しかし、最近になってこの通念を覆す新知見が得られ両者の関係を見直さなければならなくなった。
3次元6自由度の電子的下顎運動計測装置を用いた最近の研究によると、平均作業側顆路はトランスバース・ホリゾンタルアキシス(水平基準軸)上を真横に向かい、矢状面内にぶれを生じないことがわかった。これは健康な顎関節にとって、このような方向に作業側顆路が移動するのがもっとも自然であることを示唆している(保母 1982、Hobo 1983、84、84)。下顎運動理論は作業側顆路と側方切歯路(前歯誘導)が互いに原因と結果の強い相関を有していることを教えている(高山 1987)。もしそうだとすると、硬い組織からなる上下顎前歯の接触滑走によって発現する前歯誘導は、軟組織で支持されている顆路に影響する可能性がある。Coffeyら(1989)は、レジン製のスプリントを用いて各4名の被験者にそれぞれ後側方と前側方に向かう2種類の犬歯誘導を人工的に付与し、6自由度の電子的下顎運動計測装置(Replicator)を用いて作業側顆頭の側頭頂の運動路を調べたところ、後側方誘導では作業側顆頭の側頭頂が遠心に移動した、と報告している。佐藤、中野、坂東ら(1995)は、正常被験者につき上顎犬歯の近心咬合小面と下顎犬歯の遠心咬合小面が接触するM型と、これとは逆のD型の2種類の犬歯部ガイドを付与し、6自由度の電子的下顎運動計測装置(MM-JI)を用いてガイド付与前と付与後の作業側顆頭の運動経路を計測している。その結果、M型ガイドに比べてD型ガイド付与時には顆頭運動経路は後方寄りの経路をとる傾向が認められ、かつD型ガイド付与時においてはガイド付与前やM型ガイド付与時に比べて側方咬合位で顆頭後方の関節空隙が狭くなる傾向が認められたため、D型ガイドは関節円板後部組織や顆頭などへの過剰な負荷をもたらす可能性があり、関節円板の前(内)方転位や変形をはじめ、頻度が高いといわれている顆頭の外側や後部における形態変化を生じさせる要因のひとつであると思われる、と述べている。
作業側顆路がトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を真横に向かうように算出した、前歯誘導の理想値をニュートラル・ラインと呼んでいる。計測された前歯誘導をニュートラル・ラインと比較したとき、前者が後者の上方に位置する場合は、作業側顆路がトランスバース・ホリゾンタルアキシス上を斜め上方にぶれ、逆に前者が後者の下方に位置する場合は作業側顆路が斜め下方にぶれる。前後方向にも同様の傾向があることが認められた。このように、作業側顆路のぶれの方向は前歯誘導のニュートラル・ラインからの偏位方向と強い相関を有している。両者間の相関係数は上下方向および前後方向でそれぞれ0.99および0.97、有意水準はp<0.001であった(Hobo、Takayama 1989)。
上記の事実は顆路に多少のぶれがあり、かつそのぶれが前歯誘導の影響を受けることを示唆している。この示唆を裏づけるには、実際に生体上で前歯誘導を変化させたときに、作業側顆路がそれによって制御されることを確認する必要がある。そこで15名の被験者につき、被験者ごとのニュートラル・ラインに沿うように製作したレジン製ガイドテーブルとガイドピンによる人工的な前歯誘導を患者の口腔内に装着し、3次元6自由度の電子的計測装置を用いて下顎運動を計測した。その結果、術前に行なわれた上下顎歯接触滑走条件下の計測ではトランスバース・ホリゾンタルアキシスから前後方向または上下方向に偏位していた作業側顆路のぶれが、人工的な前歯誘導を付与した術後には平均約4分1(p<0.01)に減少することが確認された(保母、高山 1997)。さらに特記すべきことは、被験者1名の片側の水平側方顆路においてイミディエイト・サイドシフトが消滅していることが観察された点である。ちなみにその患者の反対側の作業側顆路ではラテロトゥルージョン(ベネット運動)が消滅した。
従来、顆路の計測値は咬合の基準とされてきたが、上記の結果は顆路が制御可能であることを示している。また前歯誘導を修正することによりイミディエイト・サイドシフトと作業側顆路が同時に消滅したという事実は、作業側だけでなく非作業側の顆路も前歯誘導の影響を受けることを示唆している。従来補綴学では、補綴物を製作するときは患者の顆路に調和させるように配慮すべきだとされてきたが、これらの新知見からこの考え方が誤っていることがわかった。
前歯誘導は患者がもち合わせている咬合により決まるものである。その前歯誘導の影響を顆路が受けるということは、顆路が患者の咬合の影響を受けるということに他ならない。したがって上記の事実は、もし患者の咬合が不良な場合は顆路もその影響を受けて不良になる可能性を示している。そのような顆路を計測して咬合器上に精密に再現し、それを基準にして補綴物を製作したとしよう。不良な顆路の影響を受けて補綴物の咬合は再び不良なものとなるはずである。このようにして患者の顆路の計測値を重視する考え方に疑問が生じ、代わって前歯誘導の重要性が浮き彫りになってきた。
西川(1989、Nishigawa 1992)は、切歯点における境界運動の前頭面投影が左右非対称で、右側経路の傾斜が左側に比較し緩やかな被験者の上顎犬歯部に金属ガイドを装着し、その影響を調べた。その結果、装着直後には非常に不安定な経路を示したが、くり返し運動を行なわせることにより、ついには右側が左側とほぼ対称な運動も行なうことができるようになった。また右顆頭と左顆頭の前方移動のタイミングにも変化が認められた、と述べている。
【臼歯離開のメカニズム】
上述のように、前歯誘導が臼歯離開に関与することは認識されているが、いかにして前歯誘導により臼歯離開を発現させるかの具体的な方法は提示されていない。そのため臼歯離開のメカニズムを明らかにしなければならなくなった。前方運動を例にとって考えてみよう。
1)前方運動時に矢状顆路傾斜度が標準値(40度)をとり、顆路と前歯誘導(切歯路)が平行で、かつ上下顎臼歯の咬頭傾斜角も両者に平行な場合、下顎は顆頭間軸の回りに回転することなく、平行移動のみ行なう。上下顎臼歯は偏心運動中常に滑走するから臼歯離開は生じない。
2)矢状顆路傾斜度が標準値(40度)をとり、顆路と咬頭傾斜角は平行だが、前歯誘導が顆路に比べ急な値(60度)をとった場合、下顎は平行移動の他に顆頭間軸の回りに回転を営み、上下顎臼歯は離開する。このように前歯誘導が顆路より急なことによって生じた臼歯離開量成分を、臼歯離開メカニズムの“前歯誘導成分”と呼んでいる。McHorris(1979)は前歯誘導を顆路より5度急にすることを推奨し、これより急にすると患者は不快を訴えると述べている。
3)矢状顆路傾斜度が標準値(40度)をとり、顆路と前歯誘導は平行だが、咬頭傾斜角が顆路に比べ緩やかな標準値(25度)をとった場合、下顎は顆頭間軸の回りに回転することなく、平行移動のみ行なう。しかし咬頭傾斜角が顆路よりも緩やかなため上下顎歯は離開する。このように咬頭傾斜角が顆路よりも緩やかなことによって生じた臼歯離開量を、臼歯離開メカニズムの“咬頭形態成分”と呼んでいる。これから顆路と切歯路以外の臼歯離開要因として、咬頭傾斜を考えなければならないことがわかる。
4)矢状顆路傾斜度が標準値(40度)をとり、前歯誘導が顆路と比べ急な値(60度)をとり、かつ咬頭傾斜角が顆路に比べ緩やかな標準値(25度)をとった場合、下顎は平行移動とともに顆頭間軸の回りに回転する。そして下顎の顆頭間軸の回りの回転による前歯誘導成分と、咬頭傾斜角が顆路より緩やかなことによる咬頭形態成分の相加作用によって、上下顎臼歯は大きく離開する。この状態は健全者の歯列に多く観察される。
以上のようなメカニズムにより、臼歯離開は前歯誘導(切歯路)、咬頭傾斜角(咬頭形態)および顆路誘導(顆路)の3成分の関与によって発現し、前歯誘導なくして臼歯離開はありえない。そこで次に前歯誘導が他の2者に比べ臼歯離開に対してどの程度影響するかが問題になる。
【前歯誘導の影響力】
下顎運動理論式(高山 1987、Takayama、Hobo 1989、保母、高山 1995)を用い、臼歯離開量への影響率を前歯誘導、咬頭傾斜角および顆路の間でコンピュータ演算により比較した。その結果に基づき前歯誘導、咬頭傾斜角および顆路の第2大臼歯への影響率をおおよその比で示すと、前方運動において2:2:1、側方運動の非作業側において3:3:1、作業側において4:4:1になることがわかった。このように顆路に比べ前歯誘導の影響力が2~4倍大きいことが明らかになったので、前歯誘導よりも顆路を重視してきた従来の考え方を逆転させなければならなくなった。
(咬合の新基準)
顆路は従来、咬合の基準として補綴学で利用されてきた。上記により、顆路の影響力が前歯誘導より顕著に小さいことが明らかになったが、さらに顆路の信頼度が咬合の基準としてふさわしいかどうかを調べた。
1)顆路の信頼度
顆路の信頼度に関し、3次元6自由度の電子的計測装置による計測データに基づいて実験的解析を行なった結果、顆路には往路と帰路の相違に代表される大きなぶれがあるという知見が得られた(保母、高山 1995)。このぶれの大きさの平均値に対する比率は前方運動で29%、側方運動で57%に達する。上記のように顆路の影響力が前歯誘導の2分の1から4分の1であるという事実に加え、このように顆路には大きなぶれがあるということが明らかになったので、顆路だけを基準にして良質な咬合をつくるのは不可能であるということが結論された。そこで前歯誘導の信頼度はどうかを調べた。
2)前歯誘導の信頼度
前歯誘導を司どる前歯は硬組織で構成されていて、その動揺は108(中切歯)~64(犬歯)μmの範囲にある(Ruddら 1964)。そのため前歯誘導には顎関節の軟組織構造に帰せられる顆路のぶれのような不安定要因が入りこむ余地は少ない。3次元6自由度の電子的下顎運動計測装置によるデータをみても、前歯誘導には顆路にみられるような往路と帰路の相違は認められず、皆無とはいえないがその量はわずかなものである。しかし、それだけで前歯誘導(切歯路)が顆路に代わり咬合の基準になると結論するのは早計であろう。正常咬合者の切歯路傾斜度の標準偏差値は、前方運動においても側方運動においてもともに約10度である。このバラツキの大きさの平均値に対する比率は前方運動で26%、側方運動で37%に達し、顆路におけるぶれほどではないが無視できない大きさであることがわかった。さらに不正咬合に関し、オーバーバイト、オープンバイト、アングルのClass IIおよび IIIの発現率はそれぞれ6.6%、2.5%、9.4%および0.8%で、計19.3%に達する(Kellyら 1973)。このことは患者の5人に1人は本人の基準とすべき前歯誘導をもたないことを示している。このように正常咬合者においてもバラツキが大きいうえ、不正咬合の発現率が高いため、前歯誘導も顆路と同様に、咬合の基準とするには信頼度が不足すると結論される。
3)咬頭傾斜角の信頼度
臼歯離開に関与する3要因のうち残る1つは咬頭傾斜角である。咬頭傾斜角の臼歯離開への影響力は、顆路の2~4倍で前歯誘導と同程度である。咬頭傾斜角の信頼度を検証するため、金沢ら(関川ら 1983、Kanazawaら 1984)が小学生の診断模型につき、モアレ法を用いて計測したデータを分析した。その結果、咬合面上の咬頭頂‐窩間の距離および高さのバラツキの平均値に対する比率はそれぞれ10.9%および10.2で両者を平均すると10.6%になることがわかった。これに対し、顆路のぶれおよび切歯路のバラツキの平均値に対する比率は、上述のようにそれぞれ29~57%および26~37%で、咬頭頂‐窩間の距離や高さのような咬頭形態関連データは顆路誘導や前歯誘導のデータに比べ平均約4倍の信頼度を有している。咬頭傾斜角も咬頭形態関連データのひとつなので同程度の信頼性を有していると考えてよい。以上により、咬頭傾斜角には顆路におけるようなぶれも切歯路におけるようなバラツキも少なく、他の2要因に比べ約4倍の信頼度があることがわかったので、補綴臨床において咬合の基準とすべきなのは、顆路や前歯誘導ではなく、永久歯萠出後間もない臼歯の咬頭傾斜角である、と結論された。
【結論】
こうして最近の3次元6自由度の電子的計測と下顎運動理論に基づく運動学的解析により、臼歯離開のメカニズムが定量的に解明され、臼歯離開の要因は顆路、前歯誘導および咬頭傾斜角の3つからなることが示された。さらに3要因のうち咬合の基準とすべきなのは、顆路や前歯誘導でなく咬頭傾斜角であることも明らかにされた。その結果、顆路を測定せずに、樋状切歯指導板を備えたツインホビー咬合器を用いて、標準値の臼歯離開(前方運動で約1.0mm、側方運動の非作業側で約1.0mm、作業側で約0.5mm)を付与することを骨子とした新臨床術式ツインステージ法が開発された(保母、高山 1995)。これは咬頭傾斜角の基準値(矢状前方有効咬頭傾斜角25度、前頭側方有効咬頭傾斜角(作業側)15度、前頭側方有効咬頭傾斜角(非作業側)20度をもとに、咬合器を下顎運動の再現装置でなく、シミュレータとして用いる補綴術式である。2つのステップからなり、第1ステップでは咬合器の顆路と切歯指導板を“条件1”(矢状顆路傾斜度25度、水平側方顆路角(ベネット角)15度、切歯指導板矢状傾斜度25度、同側翼角10度)の値に調節して、臼歯部の咬頭形態をワクシングすることにより基準値の咬頭傾斜角を付与し、第2ステップでは“条件2”(矢状顆路傾斜度40度、ベネット角15度、切歯指導板矢状傾斜度45度、同側翼角20度)の値に調節して、前歯誘導を付与することにより標準値の臼歯離開量を発現させる。作業模型の前歯部は可撤構造にしておき、第1ステップは前歯部を撤去した状態で、第2ステップは前歯部を装着した状態で実施する。
ツインステージ法の臨床術式は、上記の咬頭傾斜角の基準値と臼歯離開量の標準値をもとに構築された臨床術式で、その限りでは顆路とともに前歯誘導も2次的な役割りを担っているようにみえる。しかし基準となる咬頭傾斜角は、咬合器を“条件1”に調節して咬合器上の歯列模型をワクシングすることによりつくり出さなければならない。咬合器の運動は、顆路と前歯誘導の調節値により制御されるが、咬合器上では生体上での顆路のぶれや前歯誘導のバラツキは問題ではなく、もっぱら咬合器の顆路指導機構と切歯指導機構の影響力のみが問題となる。生体上と同じく咬合器上でも前歯誘導の臼歯離開への影響力は顆路の2~4倍である。したがってツインステージ法の第2ステップで標準値の臼歯離開量を発現させるため“条件2”により咬合器を調節する場合に前歯誘導(切歯指導板)の調節値は顆路の調節値に比べ2~4倍の重要性をもつ。
従来の補綴術式では、下顎三角の前方頂点を指導する切歯指導板の調節に明確な指針が示されていなかった。これは従来前歯誘導の解明がまったくといってよいほどなされていなかったことを如実に物語っている。極言すれば前歯誘導の構築が術者の恣意にゆだねられていたことになり、歯列部における偏心位の咬合(臼歯離開)がまったく制御されない状態にあったといえよう。ツインステージ法によりこの点が改められ切歯指導板の新しい使い方が開発されたため、従来発想されなかった補綴物の品質管理の道が開けた。これは一にかかって前歯誘導と臼歯離開の関連の科学的な解明による成果であり、その観点からするとツインステージ法は、臼歯離開咬合のための現時点におけるもっとも科学的な補綴術式といっても過言ではないと思われる。
従来、顆路を重視してパントグラフと全調節性咬合器を用いて補綴物をつくった場合と、使わなかった場合を比べ、顕著な差を認められなかったという意見も多い。これは臼歯離開に対する影響力の大きい前歯誘導を軽視してきたためといえるであろう。
⇒顆路誘導、臼歯離開、ツインステージ法