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全身と咬合

【読み】
ぜんしんとこうごう
【英語】
Occlusion and human body
【辞典・辞典種類】
新編咬合学事典
【詳細】
歯科医学はその名が示すごとく歯に関連する医学の一分野である。抜歯や抜髄など歯痛対策とそれにともなう歯の修復が永い間にわたって主な業務であったが、現在では顎機能の分野をはじめとする各分野における研究から全身との関係についても関心が集まっている。
人類は、アフリカの森林地帯に棲息していたヒトと類人猿の共通の祖先から生まれてきたと考えられている。約800万年前にアフリカ大陸で大きな地殻変動が起き、大陸の東側の熱帯雨林は乾燥してサバンナとなった。そのため、それまでその地域の森の中で果実を主食として暮らしてきたヒトと類人猿の共通の祖先は餌の欠乏をきたし、雑食化する必要に迫られた。その結果として、彼らは二足歩行を余儀なくされ、また食物を捕らえるための道具をつくるようになった。これが彼らの脳の発達を促した。
一方、大陸の西側の熱帯雨林の中で暮らしていたヒトと類人猿の共通の祖先は、そのまま果食性の生活を送り、チンパンジーやゴリラになったと考えられる。ヒトの祖先は、果実以外の食物を食べなければならなくなったため、咀嚼様式の2次的な適応が必要になった。たとえば、柔らかい果実を食べるには開閉運動だけで十分なため、それに適していた咬筋が、雑食になると硬い生肉や線維性の食物を噛み切ったり噛み砕くために臼磨運動を行なえるような筋へと順応せざるをえなくなった。類人猿の祖先はそのまま果食生活を続けたから、その子孫である今日の類人猿は今でも大きな犬歯をもち、開閉運動以外の咀嚼運動はほとんど行なわない。そのため臼歯はいつまでも鋭利に保たれている。
一方、雑食化したヒトの祖先は、臼磨運動を必要としたため、邪魔になる犬歯は進化の過程でだんだんに小さくなった。そのため猿人または原始人は著しい切端咬合と咬耗をもっている。ちなみに犬歯が小さくなったのは、道具を使うようになったため、武器としての犬歯の意義が薄れて退化したというのも理由のひとつにあげられるかもしれない。開閉運動を主体とする果食から、複雑な臼磨運動を主体とする雑食へと変化することにより、咀嚼機能は活発になり、脳の血流量もそれにともなって増加し、ヒトの大脳皮質は発達した。同時に臼磨運動により歯を磨耗させるという悪癖を獲得した。原始人では臼歯は歯頸線まですり減り、最後には歯髄が露出して感染し、敗血症で死に至るのが常であった。
野性の動物の世界では歯の寿命がその動物の寿命を決定する。この原則は古代人の時代には厳しく存在していた。しかし、現在では、歯がなくなったら義歯やブリッジなどで補うことが可能で、さらに、さほど臼磨を必要としない柔らかい加工食品を食べることにより栄養の供給は可能である。しかしよくできた総義歯でも、咀嚼能力は天然歯の50%しか発揮されず、通常は25%程度である。したがって自分の歯を大切にすることが長寿の秘訣であり、人生の質を高めるという原則は今日でも不変である。
現在、日本では60歳で定年を迎えるころには歯の数は半減し、70歳以上の高では上下顎ともに歯があるのは39.3%に過ぎず、そのうち半数の人では4本以下の歯しか咬合していないということである。まったく歯のない人は全体の25%であった。残存歯でもっとも多いのは犬歯で、以下第1小臼歯、側切歯、中切歯など近心に植立する歯が多く残り、第2小臼歯、第1および第2大臼歯など遠心にあって臼磨運動時に水平圧を受けやすい臼歯はほとんど残っていない。高齢者の歯でとくに特徴的なのは臨床歯冠が長くなることである。そのためセメント質で覆われた歯根の一部が露出する。セメント質はざらざらしているので歯垢がたまりやすい。また隣接歯の鼓形歯間空隙が大きくなるので、ここにも歯垢が付着しやすくなる。こうして齲蝕や歯周疾患が発生しやすくなる。さらに骨中に埋まっている歯根部が少ないため、支持力が低下して歯が動揺しやすくなり、もし隣接歯が欠損すると空隙に向かって傾斜したり、あるいは対合歯を失った場合には挺出が起き、咬合が乱れる。このように、高齢者では前歯は残るが、臼歯は臼磨作用のため抜けてしまう傾向がはっきりとしている。このような事態を避けるため歯科医学では、咀嚼運動中に前歯にガイドさせて臼歯が離れ水平圧を受けないような、臼歯離開咬合と呼ぶ咬合様式が推奨されている。
一方、日本人の平均年齢が増加するにともない、咬合と全身との関係が重要視されるようになった。骨折などで入院した患者が、飲みこんで喉につまらせては危ないということで入れ歯を外され、たちまち寝たきり状態になってしまった、という報告も多い。サルを使った実験結果でも、下顎歯列を抜歯して5年以上経つと、三叉神経が扁平に萎縮し、脳に入る神経根は木綿糸のように細くなってしまうことがわかっている。これは歯からの神経情報が喪失するためで、最終的には脳の萎縮を招く。
船越正也(1989)は、咀嚼が脳を刺激して動物の学習能力を高めることを実験的に突き止めている。人間の脳の活動を直接観察するPETカメラを使い、脳の色々な部分の血液の流れをモニターしたところ、咀嚼運動と脳の血流の間に統計的に有意な正の相関が認められ、咀嚼により脳の血流が増えることが確かめられた。血流の増加量は若年者のほうが老年者より高い。ボケとは、生理的老化による物忘れをいう。老化による物忘れは加齢とともに顕在化するが、アルツハイマー型老年痴呆あるいは脳血管性痴呆のような病的な痴呆の場合は社会生活ができなくなり介護が必要になる。老化によるボケの場合は体験の一部を忘れるが、人格や思考力に変化は来たさない。病的な痴呆では体験全部を忘れてしまい、人格と思考力のいずれにも障害が起きる。前者の場合は自覚症状があって、物忘れしたことを後で悔やむが、後者の場合は自分の物忘れに気づかず、それを他人のせいにする。
こうした病的な痴呆の危険因子【原因】のひとつとして、歯の喪失があげられる。健康で、社会の第一線で活躍している高齢者(平均年齢73.0歳)の残存歯数は、男性16.7%、女性18.2%であった。一方、寝たきりの高齢者(平均年齢77.5歳)では、男性9.9%、女性6.2%であった。しかも後者では歯の状態は非常に悪く、抜歯か治療が必要なものが多かった。寝たきり老人の40%は老年期痴呆の症状をもつということなので、歯が悪くなるとボケてくるという図式が示唆される。老化を調べる方法として、片足で何秒間立っていられるかの平衡機能を測定して目安にする方法があるが、噛める人と噛めない人との間には、男性で7.2秒、女性で14.2秒の差が認められた。噛めないと加工食品を多く摂取するようになり、栄養素が限られてくる。加工食品はあまり噛まなくても食べられるから、よく唾液に混ざらないうちに飲みこむ結果となる。その結果、短時間に高カロリーを摂取することになる。
近年の免疫学の研究では、高カロリーの摂取により免疫機能が低下することが知られている。マウスによる動物実験で、摂取カロリーを制限したところ、乳癌や腎臓疾患のような加齢にともなう疾患が減少した。伝統的な人間の食生活というのはいずれも低カロリーで、十分な咀嚼が必要であった。歯がなくなり、柔らかい加工食品を丸飲みしてよく噛まなくなると、脳の血流が悪くなって脳細胞の破壊が進み、その影響が全身に現われるようになる。動脈硬化、心臓病、糖尿病、白内障、そして癌などが成人病(生活習慣病)と呼ばれているが、それらが食物をよく噛むことにより予防することの可能性が示唆されている。
たとえば癌はわが国では死因の1位を占め、毎日700人の人がこの病気で命を失っている。癌の原因の多くは環境中の発癌性物質にあり、とくに日常的に体内に摂取される食品と重要な関係がある、とされている。発癌性物質などの毒素により細胞内に活性酸素が大量に発生すると、生体の重要な分子を傷つけ、癌などが発生する。これらの発癌性物質は唾液と混ぜ合わせることによりほとんど消滅する。唾液には消化酵素など多くの酵素が含まれているが、カタラーゼ、SOD(スーパー・オキシド・ジスムターゼ)、ペルオキシターゼなどは活性酸素を消去し、唾液が毒消し力をもつことが示唆されている。よく噛むことによって、唾液中の消化酵素が食物に含まれている発癌性物質が出す活性酸素を毒消ししてくれる。活性酸素を消すには30回の咀嚼が必要とされ、ひとくち食べたら30回噛むということが成人病の予防になり、ひいては噛むことにより脳の血流増加を高めボケの防止にもつながることになる。
年をとった人がお茶を飲んでいるときに突然むせることがあるが、これは嚥下の老化現象である。嚥下についてはすでに30代から老化がはじまるといわれている。咀嚼された食物は嚥下しなければならないから、嚥下が正常に行なわれないと咀嚼もスムースに行なわれないことになる。嚥下のときには歯を軽く噛いしばるので、咀嚼と嚥下は当然咬合に関係してくる。それだけでなく、舌、顎、頬部などにかかわる運動だから、嚥下の老化を防ぐには唇を含めた口のまわりの筋の老化を遅らせる努力が必要である。脳や手足の老化の予防に運動が欠かせないように、よく噛み、よく喋ることによって、嚥下の老化を防ぐことができる。反対にほとんど人と話さず、食事中もあまり咀嚼しないような生活を続けると、口の機能は低下する。よく噛み、楽しく食事をすることが肝心である。そのためには、まず歯をきちんと直し、インスタント食品のようなものは避け、噛みごたえのあるものを優先してとり、よく噛むことが大切である。これが成人病やボケの防止につながり、ひいては意義ある人生に結びつく。この意味で全身と咬合の結びつきは重要であり、歯科医の役割りはますます重いといえる。
日本咀嚼学会編、噛む効用(日本教文社、1997)を参考にした。