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平行移動と回転

【読み】
へいこういどうとかいてん
【英語】
Translation and rotation
【辞典・辞典種類】
新編咬合学事典
【詳細】
すべての下顎運動は平行移動translationと回転rotationの2成分からなり立っている。河野(1968)による全運動軸の発見に基づき、「臨床家のためのオクルージョン」(1972)のなかで石原は(2次元的にではあるが)はじめて“下顎運動がある点を中心としたtranslationとrotationからなり立っている”ことを示した。運動学ではオイラEulerの定理により次のような法則がなり立つことが証明されている。
“3次元空間内における剛体のいかなる運動も、その剛体上に定めた任意の1点の3次元変位とその点を回転中心とした3次元回転で表すことができる”。
上記において、任意の1点は剛体の回転中心である。回転中心の変位は剛体の平行移動を意味している。したがって、この定理はすべての下顎運動が1つの3次元平行移動と1つの3次元回転(いずれも仮想上)の組み合わせ計6自由度からなり立っていることを示している。上記で剛体上に定める任意の1点は剛体上のどこに定めてもよい。下顎運動の正確な理解にとってここに述べられている概念の把握は必須であるが、歯科医学の徒にとってそれがわかり難いことはGPT-6における平行移動translationの定義が運動学的に不正確であることによっても実証されている。
そこで簡単のため以下矢状面内の2次元的な下顎運動を例にとり、この概念を図解を用いて解析的に説明する。2次元運動ではオイラの定理は次のように単純化される。
“2次元平面内の剛体のいかなる運動もその剛体上に定めた任意の1点の2次元変位とその点を回転中心とした1次元回転で表すことができる。”
以上により、2次元運動における運動の自由度は“3”である。以下この物理法則の説明を兼ねて、下顎の開閉運動と前方運動における蝶番回転について説明する。下顎三角の矢状面投影は顆頭中心(Cとする)と切歯点(Iとする)を結ぶ線分C-Iで表すことができる。上記法則でいう物体上の任意の1点として顆頭中心Cを選ぶ。顆頭中心Cは顆頭間軸、すなわち蝶番回転軸の矢状面投影である。顆頭中心Cの運動開始点における位置をC0とする。C0はトランスバース・ホリゾンタルアキシスの矢状面投影である。運動開始時にC0-I0にあった下顎三角が運動によりC1-I1に移動したとすると、C0からC1への前後変位(xcとする)と上下変位(zcとする)が上記法則でいう2次元変位である。顆頭中心Cの運動完了位置C1から線分C0-I0に平行に引いた直線C1-I2と線分C1-I1のなす角(acとする)が上記法則にいう1次元回転の角度となる。回転中心は顆頭中心C、回転軸は顆頭中心Cを通り矢状面に垂直な軸すなわち蝶番回転軸で、この軸の回りの回転が開閉および前方運動における蝶番回転である。このとき下顎三角の平行移動成分の向きと大きさは顆頭中心Cの2次元変位(xc、zc)に等しい。そこで上記の法則は次のようにさらに単純にいい変えられる。
“2次元平面内の剛体のいかなる運動も1つの平行移動と1つの回転とで表すことができる”。
したがって下顎の開閉運動と前方運動は、C0→C1で表される2次元変位に等しい下顎全体の平行移動と、回転角acで表される下顎の蝶番回転の2つの成分からなるということになる。上記では下顎全体にまずC0→C1に等しい平行移動を行なわせたのち、蝶番回転軸の回りに回転角acだけ下顎全体を回転させるといった考え方をしたが、逆に下顎全体を蝶番回転軸の回りに回転角acだけ回転させたのち、C0→C1に等しい平行移動を行なわせても運動学的な結果に変わりはない。ただし実際には、平行移動と回転が同時に行なわれたり、少しタイミング(正しくは同期位相)をずらして行なわれることはいうまでもない。以上を要約すると、下顎の開閉および前方運動は、矢状面内における蝶番回転軸の2次元平行移動とその軸の回りの1次元回転計3自由度によって表現することができる。
河野(1968)は、下顎の矢状面内境界運動に対応して顆頭部の特定点が上下的に約0.7mmの帯状の範囲に限局されるループ状の運動軌跡を描くことを見い出し、左右の顆頭上に現われるこの特定点を結ぶ軸を全運動軸と名づけた。この発見に基づき上述のように、石原(1972)はその著「臨床家のためのオクルージョン」のなかではじめて“下顎がある点を中心としたtranslationとrotationからなり立っている”という表現を用いた。河野の発見は矢状面内の2次元運動についてのものなので、これを上述した2次元運動におけるオイラの定理と対比すると、石原の記述内容はオイラの定理にほぼ対応している。しかし河野の発見の大きな特徴は、オイラの定理の“任意点”の中から下顎運動特有の“特定点(3次元的には特定軸)”を見い出した結果、その特定点の運動軌跡が下顎窩に対し円板とともに滑走する顆頭の運動を反映している点にある。それによって、石原の記述とオイラの定理の合致にみられるように矢状面内の下顎運動の合理的な記述が可能になるとともに、ぶれの問題を別にすれば現存する咬合器の基本設計の妥当性を裏づけるという成果も得られた。ちなみに保母(1982、Hobo83、84、84)により前頭面内および水平面内で下顎の側方運動に対応して発見された運動学的顆頭中心は、同様の観点から全運動軸の3次元への拡張といえる。保母、高山(1995)は、運動学的顆頭中心を通る“側方旋回軸”を提案し、全運動軸と合わせ3次元6自由度側方運動における2つの特定軸を定義している。
下顎運動の解析研究の際に、出発点と終点の2つの顎位を対象として、2顎位間の運動の回転中心を求め、その点の回りの1つの回転で下顎運動を説明しようとする試みが行なわれることがある。この回転中心は運動学の定理のひとつ(シャールの定理)でいう瞬間回転軸で、このような回転中心が必ず存在することは、2次元平面内では幾何学的に証明できるが、この回転中心は2つの顎位間にしか存在せず、複数顎位については一般になり立たない。河野の発見は複数顎位についてなり立つ法則を追求したため、オイラの定理に合致する実効性のある成果が得られた。
前方運動や側方運動の態様をわかりやすく説明するために顆頭が回転しながら前下方へ移動(または滑走)するという記述が行なわれることがある。ここで顆頭の回転はオイラの定理でいう任意の1点を中心とした回転を意味し、顆頭の移動(または滑走)はその点の変位を意味しているので表現自体に運動的な誤りはない。しかし厳密には、顆頭の回転は下顎全体の蝶番回転または側方旋回を意味しその中心は運動学的顆頭中心であること、顆頭の移動(または滑走)は下顎全体の平行移動を意味することに留意すべきである。さらに付言すると、下顎の回転を記述する際に、回転軸(たとえば顆頭間軸)が回転するというたぐいの表現が用いられることがある。しかし幾何学的には回転軸には太さがないので、厳密には当該回転軸の回りの下顎の回転であることに留意すべきであろう。
→オイラの定理、6自由度、下顎運動の運動学的構成