偏心運動
- 【読み】
- へんしんうんどう
- 【英語】
- Eccentric movement
- 【辞典・辞典種類】
- 新編咬合学事典
- 【詳細】
- 下顎が中心位または咬頭嵌合位から偏心位へ移動する運動。前方運動と側方運動とに分けられ、また機能的には境界運動と境界内運動に分けられる。
【前方運動】
前方運動は左右の顆頭と関節円板が、下顎窩の前下方に引き出されることにより発生する下顎全体の前下方への運動である。この運動中に顆頭は下顎窩内で関節結節に向かって前進し、隆起の形態に沿って前下方に滑走する。
前方運動が咬合に関係するのは、中心位または咬頭嵌合位から切端咬合位までである。この間に顆頭および切歯点が移動する直線的距離はそれぞれ3.3±1.3mmおよび3.6±1.3mm(中野 1976)、または4.0±1.1mmおよび4.1±1.1mm(保母ら 1993)で、両者の間に大きな相違はない。この運動中に顆頭の示す運動路を前方顆路と呼ぶ。前方顆路は、普通、下方に向かって凸状に彎曲している。前方顆路を矢状面でみると、直線的なものから直径3/8inch(約0.95mm)の円弧に近いものまで、いろいろな形態があり、個人差が多い。前方顆路が直線を示すことは稀で、わずか8%の症例にそのような状態がみられる(Aull 1965)。彎曲の程度は有歯顎者と無歯顎者で異なり、有歯顎者では顕著であるが、無歯顎者では浅く直線的である。また小児では関節結節が低いため下顎窩の前半部は平坦で、彎曲も緩やかである。しかし成長にともなって、次第に関節結節は高さを増し斜面も急傾斜になってくる。
前方顆路と水平基準面とがなす角度を矢状前方顆路傾斜度と呼ぶ。有歯顎者の矢状前方顆路傾斜度は、Gysi(1929)のカンペル平面を基準とした測定では平均33度、Lundeen(1973)のアキシス・オービタル平面を基準とした測定では平均約40度となっている。中沢(1939)によれば、無歯顎者の矢状前方顆路傾斜度は平均29度である。最近の電子的計測によると、矢状前方顆路傾斜度の平均値はカンペル平面を基準として37.5度(中野 1976)、軸鼻翼平面を基準として30.8度(西 1989)、同じく35.6度(小川ら 1992)、アキシス平面を基準として39.1度(保母ら 1992)であり、アキシス平面基準に換算した4者の平均値は約42度である。ちなみにアキシス平面とは、トランスバース・ホリゾンタルアキシスと上顎中切歯切端から眼窩下縁中点に向かい43mmの点を含む水平基準面をいう。
一方、前方顆路を水平面でみると、正中と平行な比較的真っすぐな軌跡を描く。前方運動中、切歯点が描く経路は前方切歯路と呼ばれ、その運動量は平均4mm程度で、その角度は前歯のオーバーバイトとオーバージェットによって決定される。前方切歯路が水平基準面に対してなす角度を、矢状前方切歯路傾斜度と呼び、Gysiによれば、その平均は60度である。普通、矢状前方切歯路傾斜度は矢状前方顆路傾斜度よりも角度が大きい。電子的計測による矢状前方切歯路傾斜度の平均値はカンペル平面を基準として43.0度(中野 1976)、軸鼻翼平面を基準として32.8度(西 1989)、同じく40.8度(小川 1992)で、アキシス平面に換算した3者の平均値は約47度である。このように電子的計測による矢状前方切歯路傾斜度の計測値はいずれも矢状前方顆路傾斜度より大きく、両者の差は約5度である。McHorris(1979)は適切な臼歯離開を得るためには矢状前方切歯路傾斜度が矢状前方顆路傾斜度より5度大きいことが望ましいが、角度差がこれより大きくなると患者は不快を訴えると述べている。上記のデータはこのMcHorrisの見解に符号する。
河野(1975)により、矢状前方切歯路傾斜度と矢状前方顆路傾斜度がほぼ同じ角度をもつものと、両者の間にかなりの角度的な差をもつものの2型があり、前者の型は、前方運動時に顆頭の回転が少なく、逆に後者の型は顆頭の回転が多いことが明らかにされ、矢状前方切歯路傾斜度の大小は、顆頭の回転量という顎関節の形態以外の要因によっても差が生ずることが報告されている。
前方顆路と前方切歯路の間に相関があるか否かは興味ある課題である。西(1989)によると、正常咬合者の矢状前方顆路傾斜度と矢状前方切歯路傾斜度との間に統計的に有意な相関は存在せず、両者の差は-20度から+40度の間に分布し、平均2.4度で後者のほうがわずかに急な傾向にある。
【側方運動】
側方運動は、一方の顆頭が下顎窩内で回転し、他方の顆頭が前下内方に滑走することによって発生する下顎全体の旋回様の横ずれ運動である。この運動中に下顎が移動する側を作業側、その反対側を非作業側と呼ぶ。側方運動は運動学的には、下顎の作業側へのわずかな移動をともなった側方旋回運動で、純粋な回転運動ではない。また非作業側の顆頭が作業側の顆頭よりも大きく運動するため、側方運動は片側方向への非対称的な運動となる。この運動中に顆頭の示す運動経路を側方顆路と呼び、作業側の顆路と非作業側の顆路とではその性状が著しく異なる。
側方運動が咬合に関係するのは、中心位または咬頭嵌合位から犬歯尖頭咬合位までである。側方運動における切歯点の左右的な最大移動量(ポッセルトの運動範囲菱形柱の左右長)は片側で約10mmであるが、咬頭嵌合位から犬歯尖頭咬合位まで上下顎歯が接触滑走する間に非作業側の顆頭および前歯が移動する直線距離はそれぞれ4.1±1.0mmおよび5.0±1.0mm(中野 1976)、3.7±1.1mmおよび4.1±1.1mm(保母ら 1993)で両者の間に大きな差はない。
側方運動中、作業側の顆頭が回転しながらわずかに外方へ移動する運動は従来べネット運動と呼ばれてきたが、GPT-6ではlaterotrusionという名称が与えられ、べネット運動は不適切用語となっている。この外方への移動は平均1.0mm前後のわずかなものであるが咬合面の形態に及ぼす影響が大きいため、咬合学上重視されてきた。この運動は個人差の多い運動で、方向、経路、発生の時期などは個人によってさまざまであるが、平均的にはトランスバース・ホリゾンタルアキシスに沿って外側方に向かう(保母ら 1984)。この運動によって、側方運動中に下顎は全体として作業側にずれることになる。このずれはサイドシフトと呼ばれていたが、最近マンディブラ・トランスレイションという呼称に変わった。サイドシフトがどのような原因で発生するか明らかでないが、Guichet(1970)は作業側の関節包の靭帯の弛緩や伸張によって、側方運動時に顆頭が関節包の緩みがなくなるまで、外側方に移動するために発生するのではないかと述べている。作業側顆路は、水平面内では前側方に向かうか後側方に向かうことがあり、矢状面内では上側方に向かうか。下側方に向かうことがある。この運動の方向、経路、発生の時期には個人差が多いが、平均的にはトランスバース・ホリゾンタルアキシスに沿って外側方に向かう(保母 1983)。
側方運動中に非作業側の顆頭が、前下内方へ向かうようすを水平面に描かせると、2つの異なった性質をもつ運動経路が現われる。その1つは、この運動の初期に出現するもので、下顎が作業側に向かって横ずれするために現われる。この横ずれはイミディエイト・サイドシフトと呼ばれる。他の1つは、イミディエイト・サイドシフトの終了後、作業側の顆頭の回転にともなって起こる前下内方への比較的まっすぐな運動経路で移動量が多い。これはプログレッシブ・サイドシフトと呼ばれる。イミディエイト・サイドシフトは普通mm単位で表され、その平均値は0.42mmである(保母 1982)。プログレッシブ・サイドシフトは矢状面に対する角度で表され、その平均は7.5度で個人差はあまりみられない(Lundeen 1973)とされてきたが、この値はあとになって保母により非作業側顆頭中心に測定点をおくと12.8度となり約1.5倍になることが指摘された。この相違は機械式パントグラフの描記針が顆頭中心から離れたところにあるため顆頭中心から描記針までの距離に反比例して角度が小さくなったことに原因する。イミディエイト・サイドシフトとプログレッシブ・サイドシフトの組み合わせは、側方運動のタイミングと呼ばれている。
側方運動中に、非作業側の顆頭が前下内方に移動する経路を矢状面に描かせたものを矢状側方顆路と呼んでる。これは矢状前方顆路よりも経路が長く、水平基準面に対する角度も急である。矢状側方顆路と矢状前方顆路の角度的な差はフィッシャー角と呼ばれ、その平均値は5度である。フィッシャー角を共通の電子的計測データ群について比較するとその算術的平均値は-0.1度となり、最近の電子的研究によればフィッシャー角の平均値はほぼゼロになることが明らかとなった(保母、高山 1994)。このような結末になった理由は、従来用いられていた機械式パントグラフによる測定では顆頭の外側におかれた描記板でトレーシングが行なわれていたため、前方顆路よりも側方顆路のほうが経路が長く傾斜も大きめになる傾向があったためと考えられている。
矢状側方顆路が水平基準面となす角度を、矢状側方顆路傾斜度と呼んでいる。有歯顎者の側方顆路がアキシス・オービタル平面となす角度は平均45~50度である(Lundeen 1973)。電子的計測による矢状側方顆路傾斜度の平均値は、カンペル平面を基準として36.0度(中野 1976)、軸鼻翼平面を基準として30.7度(西ら 1992)、アキシス平面を基準として40.5度(保母ら 1992)であり、アキシス平面に換算した3者の平均値は約41度である。
側方運動中、切歯点によって描かれる運動路は側方切歯路と呼ばれ、これを水平面に投影するとゴシック・アーチが描かれる。左右の側方切歯路が水平面で互になす角度(ゴシック・アーチの展開角)を水平側方切歯路角と呼び、Gysi(1929)によればその平均は120度である。電子的計測による水平側方切歯路角の平均値は150度(中野 1976)または143度(西ら 1992)で、いずれもGysiがゴシック・アーチの展開角として示した120度よりも20~30度大きな値を示している。
【境界運動と境界内運動】
偏心運動は、境界運動と境界内運動に分けられる。境界運動は運動空間の境界上を通る運動で、限界運動とも呼ばれる。下顎運動の基本的な外形を構成し、再現性が高いため、咬合器の運動量と調節するときに利用される。境界内運動は運動空間の境界内を通る運動で、習慣運動または中間運動とも呼ばれる。咀嚼、発音、嚥下などの機能運動がこれに含まれる。定まった経路を通ることがないために、再現が困難である。
偏心運動によって描かれる境界運動路は、運動範囲菱形柱の外形の大部分を構成する。前方運動によって描かれる境界運動路は運動範囲内菱形柱の上方境界運動路を構成する。最後方は最後退位となり、その前上方に中心位が存在する。最前方は下顎の最前方位となる。この運動路上には上下顎歯の接触滑走の様相が含まれるため、その外形は個人差の多い複雑なものとなる。側方運動によって描かれる境界運動路は、運動範囲菱形柱の左右の側方境界運動路を構成する。この運動路は水平面でみると特徴のある菱形の外形をなし、その最後方は最後退位に、左右の両端は下顎の左右最側方位に、最前方は下顎の最前方位に一致する。また、この運動路を前頭面でみると、その外形はほぼ左右対称で下方に向かって長い不整な菱形をなす。上方の2辺は中心位から左右の最側方位へ向かい、下方の2辺は下顎が最側方位にあるときの開閉運動によって決定される。
【偏心位の咬合】
理想的な咬合状態をもつヒトでは、前方運動時に下顎前歯の切端が上顎前歯の舌面と接触しながら滑走し、また側方運動時には下顎の犬歯と第1小臼歯が作業側の上顎犬歯の舌面を滑走する。その結果上下顎の臼歯は離開する。この咬合様式はミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンと呼ばれる。一方、側方運動に作業側の上顎前歯と上顎臼歯の頬側咬頭内斜面が、下顎前歯と下顎臼歯の頬側咬頭外斜面とそれぞれ接触しながら滑走する咬合様式をもつヒトもいる。これはグループ・ファンクションと呼ばれ、ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの一型式となっている。これらの咬合様式では偏心運動中に歯の誘導路が下顎の習慣運動路と一致する場合は為害作用はないが、補綴処置などによって歯の誘導路が咀嚼周期を変えた場合や、境界内運動路である特定の歯だけが接触する場合には、歯、歯周組織、顎関節、筋などに対してさまざまな為害を及ぼす。
【偏心運動の測定法】
今日臨床で用いられている偏心運動の測定法にはパントグラフ法、チェックバイト法、チュー・イン法、電子的下顎運動測定法などがある。パントグラフ法は偏心運動時の境界運動路を矢状面と水平面とに連続的運動経路として記録する口外描記法である。顆路の性状、マンディブラ・トランスレイションのタイミングと量、作業側顆路(べネット運動)の方向など下顎の境界運動の全貌を正確に測定する能力をもっている。その測定結果は全調節性咬合器に再現される。チェックバイト法は咬頭嵌合位と前方、左右側方の各測定点とを結んだ直線が基準平面となす角度を測定する方法である。顆路の彎曲の外側を結ぶ直線が再現されるため、矢状面でも水平面でも測定される角度は実際よりもやや緩やかになる傾向がある。その測定結果は半調節性咬合器に再現される。チュー・イン法は、下顎を自由に運動させたときの運動路を口内記録装置により記録する方法で、境界運動と境界内運動とが同時に記録できる。しかし口内記録装置を用いるため、記録を直接観察できないことや精密な運動路を記録できないなどの欠点があげられている。電子的下顎運動測定法は新しい下顎運動の測定法である。マンディブラ・キネジオグラフやシロナソグラフのように切歯点の運動経路を矢状面、水平面、前頭面に記録する能力をもち、上下顎間に特別な固定装置を介することなく比較的自然な状態で測定を行なえるものもある。しかしその測定結果を別な装置で再現することはできないため、現在では診断用としてのみ使われている。この他コンピュータ・アキシオグラフやナソヘキサグラフJM-1000のように6自由度の計測能力をもつ機種も紹介され臨床に導入されようとしている。