理想咬合(偏心位の)
- 【読み】
- りそうこうごう(へんしんいの)
- 【英語】
- Ideal occlusion in eccentric position
- 【辞典・辞典種類】
- 新編咬合学事典
- 【詳細】
- 顎口腔系にとって、快適で、咀嚼効率が優れ、生理的・形態的に異常がなく、審美的にも良好な咬合。Guichet(1970)により定義された。Guichetは理想咬合の基準として、1)垂直的咬合圧によるストレス(応力)を減少させる要素を咬合に結びつけること、2)顆頭が中心位にあるとき、歯は咬頭嵌合位を保つこと、3)中心位から水平的咬合圧を受けるのにもっとも適した歯が機能するまで、下顎の水平的運動を許すこと、の3つをあげている。Guichetは特定のパターンを指定せず、術者は上記の理想咬合の基準に基づき現症を検討し、治療の成功度を評価し、そのヒトにもっとも適切な咬合のパターンを付与すべきであり、すべてのヒトに共通する咬合のパターンはありえないと主張している。Slavicek(1982、84)は順次誘導咬合の提唱に際し、咬合様式の目的として筋の活動電位を最小限に保つことをあげている。偏心運動時には有害な水平咬合圧が発生する。これをいかにして歯と顎関節に安全に配分するかについて種々の異なった見解があり、今日、偏心位の理想咬合はバランスド・オクルージョン、ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョン、グループ・ファンクションの3つに分類されている。
【バランスド・オクルージョン】
バランスド・オクルージョンは3つの理想咬合のうちでもっとも古く、咬頭嵌合位と偏心運動の全過程においてすべての歯が同時に接触するような咬合様式をいう。フルバランスド・オクルージョンあるいは両側性咬合平衡bilateral balannceとも呼ばれる。バランスド・オクルージョンは、下顎の偏心運動中にすべての歯を同時に接触滑走させることによって、咀嚼中に発生する水平咬合圧(側方圧)を各歯と顎関節に均一に分散させることを目的としている。その結果、側方圧は歯と顎関節とが生理的に分担できる範囲内まで軽減できると考えられた(Granger 1962)。バランスド・オクルージョンは咀嚼運動が垂直的でなく、水平的に発生するという学説を前提として樹立された。これに従えば、咀嚼運動とは歯にとって有害な側方圧を連続的に加える作用ということになり、側方圧を少数の歯に負担させることは、歯周組織の保護の観点から好ましくないことになる。この咬合様式は、古典的下顎運動理論を基盤とし、はじめは総義歯のための咬合として考案されたもので、その起源は前世紀にさかのぼる。しかし年月の経過とともに、このような咬合が無歯顎、有歯顎を問わず広い意味の理想咬合となり、今世紀のはじめにはこれが既成概念となった。そのためMcCollumもオーラル・リハビリテイションの理想咬合としてバランスド・オクルージョンを採用している。
1940年代後半になって、StallardとStuartはバランスド・オクルージョンを与えた症例の大半が失敗に終わったことを知り、このような咬合が果たして理想咬合といえるか疑問を抱くようになった。Stuartら(1963)はバランスド・オクルージョンを次のように批判している。“可能な限り多数の歯を下顎運動の全過程において接触させようという考え方は不合理である。たった2本の切歯が薄い繊維性の食物を切断しようとするときに、残りの歯を全部接触させようとするのはばかげている。そして片方の歯列で小さな食物の塊を噛むときに、わざわざ非作業側の全歯を接触させるということもまことにぎごちないことである。”バランスド・オクルージョンに対する批判点としては、上下顎歯の過度の接触により過度の咬耗が引き起こされること、また正常な歯周組織を有する天然歯列に完全なバランスド・オクルージョンを発見できないこと、などがあげられる。稀にみられる天然歯のバランスド・オクルージョンは咬耗の所産であることが多い。このような理由のためバランスド・オクルージョンは単なる想像上の理想咬合にすぎないと考えられるようになった。今日では、バランスド・オクルージョンは総義歯のための咬合と考えられ、適応症が限定されている。
【ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョン】
D’Amico(1958)は、原始人やプレホワイト・インディアンの頭蓋骨について広範な人類学的調査を行なった。彼らの歯列には極端な咬耗と切端咬合がみられるのに対し、大きな犬歯をもつ類人猿では偏心運動中に上下顎の臼歯が離開するため臼歯の咬頭は健常な状態に維持されていることを観察した。そして咬耗による咬合の破壊を予防するために自然の与えた適応形態が、犬歯誘導咬合(カスピッド・ライズ)と臼歯離開であるという学説を提唱した。霊長類の上顎の犬歯は、常に下顎の犬歯と第1小臼歯に咬合している。犬歯のもっとも重要な機能は、下顎を咬頭嵌合位へ導き、その間に犬歯以外の歯が接触するのを防止することにある。このような犬歯の誘導作用によって、不要な歯の接触がなくなり、咬耗は防止される。したがって、犬歯は咬耗に対する自然の安全保障機能をもつと考えられる。また犬歯は、臼歯部に加わる側方圧を制限して、歯周組織を守るうえでも有効である。D’Amicoは犬歯の優位性の根拠として、1)犬歯が非常に緻密な歯槽骨壁によって囲まれ、2)わずかな刺激にも敏感であり、しかも3)その歯根が歯槽に深く植立し、歯冠長に対する歯根長の比率が大きく、また4)顎関節から離れた位置にあって、強い力を受けにくい、などの解剖的な利点をもつことをあげている。
D’Amicoの提唱したカスピッド・ライズは、あらゆる偏心運動を犬歯のみによって誘導させることをいい、臼歯離開咬合を目的として付与される。カスピッド・ライズでは類人猿にならい、前方運動と側方運動の区別なく、すべての偏心運動中に上顎犬歯に下顎を誘導させている。しかしヒトでは、犬歯が下顎の前方運動を誘導するのは稀であり、その誘導作用は側方運動中にのみ認められるのが普通である。そのため今日ではカスピッド・ライズは理想咬合のうちに数えられていないが、その考え方を契機としてミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンが発案され、臼歯離開はその一要件となった。
Stallardは、65~70歳という高齢にもかかわらず、ほとんど咬耗のない歯をもつヒトが散見され、そういう理想的な咬合をもつヒトの口腔内を診査したところ、偏心運動中に臼歯部歯列は接触せず、逆に咬頭嵌合位では前歯が接触せず、臼歯部歯列だけで垂直方向への咬合力を負担していることを知った。これは偏心運動中には前歯が臼歯を保護し、咬頭嵌合位では臼歯が前歯を保護するという相互間系をもっていることを示唆している。ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンは、1949年にStallardによって樹立された咬合様式で(Thomas 1988)、前方運動がはじまると上顎4切歯が下顎前歯の切端をガイドし、それより遠心に植立する歯は接触しない。側方運動中には、作業側の上顎犬歯の口蓋面が、下顎犬歯の遠心切端と第1小臼歯の頬側咬頭の近心斜面をガイドし、それ以外の歯を一切接触させない。ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンはGPT-6(1994)では、1)咬頭嵌合位では臼歯が前歯を保護し、2)前方運動では切歯が犬歯と臼歯を保護し、さらに3)側方運動では犬歯が臼歯を保護する咬合様式、と定義されている。
Lucia(1961)はミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの利点として次の事項をあげている。1)バランスド・オクルージョンのように咬頭が鼓形歯間空隙に噛みこまないため、歯の離開や挺出がない。2)中心位において歯列が安定した咬頭嵌合位をとるため、そのときに発生する咬合圧は歯の長軸方向に向けられる。3)前歯が臼歯と同時に接触滑走しないため、よりより切截が可能である。4)歯ぎしりをする傾向が少ない。5)歯の接触が最小なため咬耗が少ない。6)咬頭頂が対合歯と接触しないので咬耗が少ない。7)犬歯のもつ重要性が正しく意義づけられている。8)辺縁隆線、横走隆線および斜走隆線が鋏で切るような作用をして咀嚼効率を高めるため、咀嚼運動中の咬合力が小さくてすむ。9)この咬合様式を用いた場合は、同一口腔内で1つの補綴物をリマウントした後で他の補綴物をつくることができる。バランスド・オクルージョンではこのような操作は不可能である。10)バランスド・オクルージョンよりも審美的である。
【グループ・ファンクション】
StuartとStallard(Stuart、Stallard 1960、Stallard、Stuart 1963)によって提案されたミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンとほぼ時を同じくして、Schuyler(1959、61、63)は、犬歯1歯だけに全側方圧を負担させるよりも作業側の全歯に側方圧を負担させるのがよいのではないかと述べている。Scyuylerは、側方運動中に非作業側に現われる上顎臼歯の舌側咬頭と下顎臼歯の頬側咬頭との接触滑走(クロス・アーチ・バランス)は、歯周組織の外傷や顎関節の機能障害を誘発する原因になるので有歯顎には絶対に与えるべきでないとするとともに、作業側に現われる舌側咬頭どうしの接触滑走(クロス・トゥース・バランス)も為害性があり、望ましくないと述べている。以上のような考え方に基づきSchuylerは、側方運動中に作業側の全歯の頬側咬頭を接触させる一方で、作業側の舌側咬頭と非作業側の咬合接触を取り除き、臼歯を離開させるグループ・ファンクションド・オクルージョンを提唱した。この咬合はバランスド・オクルージョンからクロス・アーチ・バランス(非作業側の咬合接触)とクロス・トゥース・バランス(作業側の舌側咬頭どうしの咬合接触)を取り除いた咬合様式ということになる。
【臨床的位置づけ】
上述のようにもっとも古典的な理想咬合である。バランスド・オクルージョンは、総義歯のために発案された咬合様式で、偏心運動中にすべての上下顎歯を常時接触滑走させて、咬合力をなるべく多くの歯に分配することを意図している。矢状面内においてバランスド・オクルージョンをつくり出すには、咬合器の切歯路を顆路と平行に設定し、補綴物の咬頭傾斜を両者に平行に形成すれば実現できる。そのため前方運動のような2次元的な運動において、バランスド・オクルージョンを付与するのは比較的容易であった。しかし3次元的な運動である側方運動において、バランスド・オクルージョンを付与するのは困難である。下顎は三脚にたとえられるが、その位置は本来下顎三角の3頂点である左右の顆頭中心と切歯点の3点によって定まるものである。しかしバランスド・オクルージョンでは、3つの顆頭中心の他に切歯点に代わって左右両側歯列の咬合接触が必要となり、計4つの制約条件を包箴することになる。これは下顎を机にたとえると、3本足の机はすぐ床の上に安定するが、4本足の机は足先を精確に切りそろえないと安定しないことに相当する。しかもこの場合には左右両側にある2本の足は咬頭の数に相当する指をもっている。バランスド・オクルージョンを付与するためにはそれぞれの足を精密に切りそろえなければならない。したがってその実現はきわめて困難で、無理に付与しようとすると咬合面の頬舌径が異常に広くなったり、あるいは咬頭が極端に高くなったりして、そのような補綴物を口腔内に装着すると為害作用を生じることが認識されている。
Schuylerの提唱したグループ・ファンクションド・オクルージョンは、犬歯を含む作業側の全歯に咬合力を分散させることを意図したもので、天然歯列にもっとも広く存在する咬合様式であるとされてきた。しかし最近の研究により、天然歯列においてグループ・ファンクションの発現率は8%にすぎないことが判明した(保母、高山 1993)。Schuylerはこの咬合様式により側方運動中に作業側の全歯を接触滑走させ非作業側の歯を離開させるように提唱しているが、これは机のたとえでいうと、3本足の机に相当する。しかしこの場合、前方の足は1本のようにみえるが、この1本の足が作業側の歯の数に相当する指をもっている。片側だけとはいえ天然歯列でこれらの指がすべて整然とそろっていることは稀であろう。このように考えると天然歯列で作業側の全歯が接触滑走する例が8%しか存在しないのは当然であることがわかる。そのためこの咬合を補綴物に付与するのは実際には困難である。
最近グループ・ファンクションド・オクルージョンの定義が、側方運動中に作業側の(犬歯を含む)上下顎2歯以上が同時接触する関係にあり、それらの歯がグループとして咬合力を分散させる咬合様式、と変更された(GPT-5 1987)。そして用語もグループ・ファンクションに変更された。この定義によると作業側の歯の大半は臼歯離開してもさしつかえないということになる。一方非作業側のクロス・アーチ・バランスを禁忌とするSchuylerの指摘は現在でも有効である。したがって新しいグループ・ファンクションの定義は、作業側臼歯が接触滑走する状態というよりは、側方運動中に作業側の歯がわずかに接触するだけでほとんどの歯が離開する状態となり、ミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンの定義に近づいたことになる。
カスピッド・ライズを糸口として樹立されたミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョンでは、側方運動中に作業側の犬歯が下顎運動をガイドし作業側と非作業側の全臼歯を離開させる。その結果、下顎は2つの顆頭と作業側の犬歯からなる3本の足によって誘導されることになり、補綴作業もきわめて容易になった。こうして偏心位の咬合様式は、下顎を文字どおり3本の足で誘導することになり、つくりやすく、安定した理想咬合に落ち着いた。